洗足という字は「足を洗う」と書きます。
「足を洗う」という言葉からは、なにやらその筋の者など連想してしまいがちですが、実は足を洗ったのはヤクザ者ではなく、日蓮さんという事のようです。
洗足池は、呑川支谷の窪地の湧水を堰き止めて作った人工の池で
《千束池が洗足池と呼ばれるようになったのは、弘安5年(1282年)に、日蓮が身延から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲のやかた(今の池上2丁目本行寺)に立ち寄った際、千束の池半で休息し傍らの松に袈裟を掛け、池の水で手足を洗ったためと言われています》
ところが、この「洗足池」のあるのは大田区で「洗足」が地名になっているのが目黒区。
しかも「洗足池」のある大田区には、同じ読みの「千束」の地名もあるから、益々ややこしい。
恐らくは区割りが出来た時に、変な具合に線引きしたためにこうしたねじれ現象が出来たものと思われますが、元々は「千束」が先のようで、意味は洗足池が灌漑用水を賄っていた為 《税金が稲千束分免除されていた》事が、そもそもの由来らしい。
大田区の「北千束」、「南千束」は、その名残りだそうです。
平安時代からあるとされる、古い地名の「千束」の方には諸説があって
1.稲が千束取れたことから
2.この地にある大池(洗足池)が水源地として灌漑に利用されていたから
3.千人の僧を招いて供養を営む法会「千僧供養」の費用に当てる免田であった
などがあり「千束の郷」という地名が由来という説もあります。
《名の残るくらい、全くの田んぼに遊郭が誕生したのがのちの吉原で、昭和41年に「浅草新谷町」、「浅草千束町」、「浅草新吉原京町」、「浅草新吉原江戸町」、「浅草新吉原揚屋町」、「浅草新吉原角町」などを合併した地名である》
《大田区の「南千束」、「北千束」とともに、中世にはこの辺り一帯の地名が「荏原郡千束郷」であった》
多くの町名は、存続の希望が出たのですが叶えられず、新住居表示になっていった。
その中で、積極的に旧町名を改めて欲しいという要望が出された地域が、現在の台東区千束です。
その旧地名は「吉原」で、やはりイメージが芳しくないとのことだったのです。
●ポリネシア語による解釈
千束の名は、平安時代末期の文献から見られます。
由来としては、仏教用語の千僧供料(せんそうくりょう)の寺領の免田で、1000束の稲が貢租(税)から免除されていたとする説、大池(洗足池)が水源地として灌漑に利用されたので、稲1000束分の税が免ぜられていたとする説、などがあります。
「テ・(ン)ゴト・ク」、TE-NGOTO-KU(te=the;ngoto=be deep,be intense,head;ku=silent)、「静かで深い(沼。田圃)」(「(ン)ゴト」のNG音がN音に変化して「ノト」となり、「テ・ノト・ク」が「センゾク」になった)
※
httpwww.iris.dti.ne.jp~muken 引用
しかしながら、今一度初めに戻って考えるに、何故に「洗足池」から離れたところに「洗足」があるのかとなりますが《洗足駅の近辺にある、洗足学園大学附属第一高校》が、その駅名の由来らしい。
《この学校名、当然洗足池の地名を冠したものかと思いきや、キリスト教の故事に基づいた命名らしいです。
なんでも、キリストは翌日に十字架の上に消えることを悟った時、 12人の弟子たちの足をひとりひとり洗ってやって、最後の晩餐の席についたそうです。
とはいっても、地名とまったく無関係に思いついたとは考えにくいです。
この学校の創立者は敬虔なクリスチャンだったらしく、仏教系のエピソードを元に名前を付けるわけにはいかなかったのかな、と思っています。
よって現状の洗足駅は、洗足池の洗足ではなく洗足学園の洗足から由来しています。
昭和7年(1932年)、当時の東京府荏原郡が東京市目黒区になった時、平塚村の一部で学校のあるところの地名が、洗足一丁目となったのが始まりです》
ここまで来ると、些か眉唾めいた感じもしますが、そもそも「日蓮が、ここで足を洗った事から洗足となった」自体がどうやら伝承という事のようでした。
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