2004/01/29

東本願寺(夏の京part10)

東本願寺は、京都府京都市下京区烏丸七条にある真宗大谷派の所有する伽藍の通称。正式名称は、「真宗本廟」。 真宗教団連合(真宗十派)の一つである真宗大谷派の本山であり、法的には寺院ではない。

同派の宗憲には、「真宗本廟は、宗祖聖人の真影を安置する御影堂及び阿弥陀堂を中心とする聖域であって、本願寺とも称し、本派の崇敬の中心、教法宣布の根本道場である」と規定される。

2008年現在の門首は、浄如(大谷暢顕)。

堀川七条に位置する「西本願寺」(正式名称「本願寺」)の東に位置するため、「東本願寺」と通称される。また大谷派としても「東本願寺」の通称を公式ホームページ・出版物などに用い、正式名称「真宗本廟」と併用している。他に、「お東」、「お東さん」とも通称される。

慶長7年(1602年)に、豊臣秀吉の命により退隠させられていた教如(光寿)が、徳川家康より烏丸六条に寺地を寄進され、本願寺の第十二代に就任する。このことにより本願寺は、「堀川七条の本願寺」と「烏丸六条の本願寺」とに分立する。

かつて本願寺は正式な寺院であったが昭和62年(1987年)に、「大谷派」と包括・被包括の関係にあった宗教法人としての「本願寺」が法的に解散され、宗派と一体のものとされた。結果、本願寺は寺院ではなくなった。以後、東本願寺の正式名称は「真宗本廟」(「本廟」とは、同信同行の門信徒が宗祖親鸞の教えを聞信する根本道場・帰依処としての、親鸞の「はかどころ」の意)となる。

1977112日には東本願寺爆破事件が起きている。東本願寺は、江戸時代に4度の火災に遭っており、その火災の多さから「火出し本願寺」と揶揄されるほどで、現存建造物の多くはどんどん焼けの後、明治期の再建だが、建築・障壁画等は当時の技術の粋を集める。

御影堂
御影堂は、境内のほぼ中心に位置し、宗祖親鸞の坐像(御真影)が安置される。旧称は「大師堂」。世界最大級の木造建築物である。現在の建物は、明治13年(1880年)起工し、明治28年(1895年)の完成。平成16年(2004年)から平成21年(2009年)にかけて、「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」の特別記念事業として、修復工事が行われる。

阿弥陀堂
阿弥陀堂は、御影堂の南側に位置し、本尊 阿弥陀如来(木像・立像)が安置される。大きさは御影堂よりひとまわり小さく、幅52m・奥行き47m 。現在の建物は、明治13年(1880年)起工し、明治28年(1895年)の完成。

阿弥陀如来像の向かって右側には、聖徳太子の絵像が奉掛され、左側には、七高僧の絵像(法然の絵像一幅と六高僧〈龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導・源信〉の絵像一幅)が奉掛される。

平成21年(2011年)の「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」法要後には、阿弥陀堂の修復工事が始まる予定である。
 

御影堂門
御影堂門は、高さ約28mの入母屋造・三門形式の二重門。「真宗本廟」の扁額を掲げる。上層(非公開)には、釈迦如来像(坐像)を中央に、脇侍として向って右側に弥勒菩薩像(立像)、左側に阿難尊者像(立像)の三尊が安置され、浄土真宗の正依の経典「浄土三部経」の1つである『仏説無量寿経』の会座をあらわす。また、その手前には仏舎利が安置されている。京都三大門1つである。明治44年(1911年)の再建。

阿弥陀堂と同じく、2011年の御遠忌法要後には、御影堂門の修復工事が始まる。



 阿弥陀堂門
阿弥陀堂門は、切妻造・檜皮葺き・唐破風形式の四脚門。江戸時代には、「唐門」と呼ばれていた。京都駅に一番近く、段差の無いバリアフリーの門。御影堂門と同じく明治44年の再建。
 
渉成園
渉成園(しょうせいえん)は、京都府京都市下京区にある真宗大谷派の本山・真宗本廟(東本願寺)の飛地境内地。東本願寺の東方約150メートルに位置し、ほぼ200メートル四方の正方形をなす。面積3.4ヘクタール。西は間之町通、東は河原町通、北は上珠数屋町通、南は下珠数屋町通に接する。

名称は、中国六朝時代の詩人陶淵明の「園日渉而成趣」の詞にちなむ。また、周囲に枳殻(カラタチ)が植えてあったことから、「枳殻邸」(きこくてい)とも通称される。

昭和11年(1936年)12月、国の名勝に指定される。


9世紀末に嵯峨天皇の第12子・源融が奥州・塩釜の風景を模して作庭した六条河原院の故地とされる。付近に今ものこる塩竈町や塩小路通などの地名は、その名残りという。

寛永18年(1641年)、徳川家光から東本願寺に寄進される。

承応2年(1653年)、石川丈山によって書院式の回遊庭園として作庭される

以後、近世・近代を通じて門首の隠退所や外賓の接遇所として用いられるなど、東本願寺の飛地境内地として重要な機能を果たした。また、延宝6年(1678年)から宝暦4年(1754年)の間は、西隣に接して東本願寺の学寮(大谷大学の淵源)が置かれた。

園内には、全敷地の6分の1を占める広大な印月池をはじめとする頼山陽撰の十三景が広がり、大書院の閬風亭や、漱枕居・縮遠亭・代笠席の3茶室、第二十一代嚴如(大谷光勝)の持仏堂であった園林堂等、瀟洒な諸殿舎が点在する。殿舎内部には、石川丈山や狩野永納、棟方志功等の作品が残る。

庭園は作庭時の姿を残すが、安政5年(1858年)・元治元年(1864年)の2度の罹災により焼失する。現在の殿舎は、慶応元年(1865年)から明治初期までに再建されたもの。7000㎡を超える広い池は「印月池」といい、古くは高瀬川の水が引かれていた。

明治に入り琵琶湖疏水が開通すると、東本願寺の火防噴水用に蹴上から専用の鉄管で疎水の水がひかれ、この水が渉成園にも引き込まれた。

年間を通じて一般に公開されており、東本願寺で行われる諸行事等の際には、種々の催しの会場として用いられている。
出典 Wikipedia

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