2004/01/31

桂春院(夏の京part12)


続いて《明智光秀の菩提を弔うために、創建したものである》という、通称「明智風呂」へも案内された。

 妙心寺本坊を堪能した後は、塔頭寺院巡りである。塔頭巡りとはいっても、47ある塔頭の中で常時公開しているのは2寺しかないのは惜しい。

 まずは「桂春院

 <江戸初期創建の妙心寺の塔頭。ツツジの大刈込が美しい南庭と苔が見事な東庭など、創建時の枯山水庭園(史跡・名勝)がある。

 三畳台目で草庵風の茶室既白庵[きはくあん]は、近江長浜城から移築されたものだ>

桂春院は、京都市右京区花園にある臨済宗大本山妙心寺の塔頭である。退蔵院・大心院とともに、通年公開されている塔頭の1つである。

慶長3年(1598年)に織田信忠(織田信長の長男)の2男・津田秀則が水庵宗掬(すいあんそうきく)を開祖として見性院(けんしょういん)を創建。秀則死後、美濃の豪族・石河貞政(いしこさだまさ)が寛永9(1632)に父の50年忌の追善供養のために桂南守仙(けいなんしゅせん)を請じて建物を整備し、父の法名「天仙守桂大禅定門」、母の法名「裳陰妙春大姉」から2文字を取り「桂春院」と改めた。

方丈(本堂)・・・京都府指定文化財
寛永8(1631)に建立された単層入母屋造・桟瓦葺の建物で、内部は狩野山楽の弟子である狩野山雪による襖絵で飾られている。このうち「金碧松三日月図」は狩野山雪の筆によるもので、かつては仏壇背後に貼り付けられていたが,襖絵へと改装された。

既白庵
石河貞政が寛永8年(1631年)に城主を務めていた長浜城から、書院ともに移築した茶室。深三畳台目、杮葺、東側を切妻造として出庇つける。藤村庸軒流の茶室と伝えられる。なお妙心寺では詩歌・茶道などは修行の妨げになるため厳禁だったが、建物の隅に隠れるように茶室を建て,ひそかに茶を楽しんでいた。

 書院、庫裏、表門は、いずれも京都府指定文化財。
出典 Wikipedia

 お目当てはあくまで有名な「退蔵院」の方であり「桂春院」は正直「おまけ」というニュアンスだったが、これが案外な掘り出し物であった。建物自体はこじんまりとしたものだが、見どころは4つの庭園である。 

庭園
江戸時代の作庭で、国の名勝・史跡に指定されている。

清浄の庭は、方丈北側の壺庭に井筒を利用して、西南隅に紀州の巨岩・奇石を直立した枯滝の石組、そこに滝の響き、白砂の渓流が音立てて流れる思いがするように、常に心身の塵垢を洗い清め清淨無垢にしたいものである。

佇の庭は、書院前の路地庭です。露地は梅軒門と猿戸によって内露地、外露地にわかれ、共に狭い面積であるが、少しの無駄なく空間を利用して巧みに作られています。その向こうは、一段低くなっていて七尊石、さびた茶の水井戸、蒼竜池があります。当院庭園の作者及び年代については、記録もないが、江戸時代初期、小堀遠州(1579-1647)の高弟、玉淵坊は妙心寺塔頭雑華院の庭を作っていることなどから、玉淵坊作庭説がいわれています。


方丈東庭は思惟の庭。左右には築山が配され、また十六羅漢石も据えられています。中央の礎石は、座禅石に見立てられています。


 真如の庭は、方丈南側の崖をつつじの大刈り込みで蔽い、その向こうは一段と低くなり生い茂る楓の樹木におおわれ、一面に杉苔の美しい中に、小さな石庭をさりげなく(無心に)七・五・三風に配置したところは、十五夜満月を表現している。

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