二条城といえば、言うまでもなく修学旅行や観光コースの定番である。小学校の修学旅行で京都・奈良を廻った時は、この二条城がコースに入っていたかどうかはまったく記憶がない。京で過ごした学生時代にも、一度も訪ねた経験がない。と言うよりは、当時は「そういや、そんなのがあったっけ・・・?」という程度にしか、まったく興味を示さなかったというのが正直なところであり、それから十年も経って(なんとか二条城に・・・)と、わざわざ高い足代を使って駆けつけている始末だから、無知とは怖いものである。
そしてようやくにして二条城行きが実現したのだが、旅本を見ていて二条城の直ぐ近くに『神泉苑』という小さな神社がある事が判明し、拝観時間制限のない(早朝から入る事が出来る)そちらから廻る事にした。
この神泉苑は、今でこそ二条城の陰に隠れて見落とされそうな小さな神社だが、かつては
《平安京造営の際に、禁苑として造営された。当時は南北400m、東西200mに及ぶ広大な庭園で、皇族が舟遊びや狩猟を楽しんだが、鎌倉時代以降に荒廃。さらに家康の二条城築城で大部分を削られたが、明治になって真言宗の道場として再興された。苑内中央の放生池は禁苑にあった大池の一部といわれ、池中の島にはかつてこの場所で行われたという、雨乞い伝説を伝える善女龍王を祭る。
苑内には大池、泉、小川、小山、森林などの自然を取り込んだ大規模な庭園が造られており、敷地の北部には乾臨閣を主殿とし右閣、左閣、西釣台、東釣台、滝殿、後殿などを伴う宏壮な宮殿が営まれていました・・・地下鉄東西線建設に伴う発掘調査によって大池の北岸、泉から池に流れ込む小川(遣水)など、庭園の北部を検出しています。小川河口のすぐ西側の池の北岸には、長さ約4mを測る厚い板材が設置されており、船着き場の足場板と見られます。ここでは、船着き場の足場板を検出状況に即して復元展示しています。
平安時代初頭頃には、苑池での管弦の宴などに用いられた竜頭鷁首の舟などが着き、貴族たちが南庭へと下り立ったものと想像されます》(公式Webページより)

とある通り、大変に大規模かつ由緒あるところであったらしい。現在は、その殆どの面影がなくなってしまったのが惜しまれるが、桜の美しさは今もなお生き続けている。
朝の散歩を兼ねて神泉苑を歩いた後、いよいよお目当ての二条城へと移動する。
出典 https://www2.city.kyoto.lg.jp/bunshi/nijojo/index.html
<二条城は慶長8年(1603年)、徳川将軍家康が京都御所の守護と将軍上洛の時の宿泊所として造営し、3代将軍家光により伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626年)に完成したものです。豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と、家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合されて、いわゆる桃山時代様式の全貌を垣間見る事が出来ます。徳川家の栄枯盛衰のみならず、日本の歴史の移り変わりを見守ってきたお城です>
二条城の庭園は「二の丸庭園」、「本丸庭園」、「清流園」の三つがあるが、まずは順路にしたがって二の丸庭園から拝観する。二の丸庭園といえばお城には付き物だけに、何度も見慣れた名古屋城のそれをイメージしていたのだったが、この二条城のは、まったく予想とは懸け離れていた。
<時代は下り、15代将軍慶喜の上洛時には樹木は殆どなく、池は枯渇して枯山水風の庭園景観を呈し荒廃していきました。大政奉還後、二条城は転々と所管が変わり宮内省に所管されてからは5回以上改修が行なわれ、離宮的・迎賓館的な城として利用されました。特に離宮時代に行われた植栽工事は、幕末の庭園景が変貌する程の大規模な改修工事で、今日に至る基本的な景観が完成したと考えられます。
京都市に下賜されてからの二の丸庭園は、昭和14年(1939年)名勝に指定、昭和28年に国の特別名勝の指定を受け、文化財的資産と観光要素の一つとして維持され現在に至っています>
なにしろ広い。そして広いばかりではなく、八陣の庭とも言われる神泉蓬莱の世界を表した庭園は小堀遠州作と伝わるだけに、どこもが美の極致なのである。
豪壮な石組みを堪能できる、スケール雄大な庭園を見て廻り
(さすがは「特別名勝」に指定されている、由緒ある庭園だけの事はあるわい・・・)
と、ひたすら感心するばかりだ。これに比べれば見慣れた名古屋城を始め、他の城の二の丸庭園はどれも殺風景に見える事だろう。
そうして後ろ髪を引かれる思いで、本丸庭園に移動する。
<現在の本丸庭園は明治28年 5月23日、明治天皇が本丸に行幸された折、既存の枯山水風庭園の改造を命じ約7ヵ月半の歳月をかけ大改造の末、明治29年に完成した庭園です。明治の中頃になると洋風の庭園が多く作庭されていることなどから、本丸庭園も少なからずその影響を受けていると考えられます。
庭園は東南隅に月見台(築山)を配し、芝生を敷き詰め曲線的な園路を設け、石段(岩岐 <がんき>)沿いにはアラカシ、ベニカナメなどを植樹し所々に燈籠や庭石などを据えられています>
こちらは「簡素枯淡」とでも言うべきか、先に見た二の丸庭園に比べればスケールの小さい感は否めなかったが、かつてこの本丸庭園は二の丸庭園にもヒケをとらないような素晴らしい庭園だったらしい。
残念ながら天明8年(1788)の大火の飛び火によって本丸御殿、隅櫓、多聞櫓などが焼失した際に延焼してしまったのは惜しまれる。二の丸庭園と比較してはいけないが、これはこれでこじんまりとシンプルな良さがあるといえる。
天守閣跡に上がると西には愛宕山系、そして東側には比叡山や左大文字が見える絶景が望めた。天守閣が残っていないのは残念だが、城跡をなぞって歩くだけでも、いかにスケールが大きかったかが偲ばれる。
残る清流園は、昭和40年に造営された。数百年の歴史を背負った二庭園に対し、非常に新しい庭園である。前の二つですっかり庭園の美しさを堪能したのだったが、この清流園がまた素晴らしい。
《昭和25年、進駐軍の意向によりテニスコートに転用され、その後、昭和40年に清流園が造営され現在に至っています。この庭園は、河原町二条にあった旧角倉了以の屋敷の一部、庭石、庭木等を無償で譲りうけ、更に全国から集めた銘石、篤志家より寄贈を受けたものなどを用い、昭和40年(1965年) 完成しました。庭園は当時の高山義三市長によって「清流園」と命名され、東半分が芝生を敷き詰めた洋風庭園、西半分は二棟の建物を含めた池泉回遊式山水園(和風庭園)からなる和洋折衷庭園で、観賞するだけでなく実用的な庭となっております》
とある通り、東山を借景とした庭園そのものも勿論だが満開のソメイヨシノ、枝垂れ桜が広い園内一杯に咲き誇る様は見事なものである。
どこまで行っても終わりがないような、広々とした園内に続く桜のトンネルを堪能しているうちに、朝から今にも降りだしそうだった空から、遂に細かい雨粒が降って来た。清流園を出てみやげ物屋を冷やかした後で、また本丸御殿の前に戻る。
《豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と、家康が建てた慶長年間の建築。そして家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合されて、いわゆる桃山時代様式の全貌を垣間見ることが出来ます》
とはまさにその通りで、ツアー団体のオノボリサンの先頭にいた無学な田舎者(?)のジー様が
「これが二の丸御殿きゃー・・・なんだかこきたねーな・・・」
などと大声で怒鳴り、周囲の失笑を買っていたのはご愛嬌か ( ´艸`)ムププ
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