学生時代に京都に住んでいたが、当時は町のあちこちにある寺社などには爪の先程の興味もなく、講義をサボってはもっぱら、大阪や神戸辺りに繰り出していたものである。その後、地元に帰って来て数年経ってから、偶々神戸旅行で目にした庭園に心が惹かれたのが、京にのめり込む切っ掛けとなった。
(庭園といえば、確か京都にゴロゴロと転がっている寺とかに、必ずあったような・・・)
無粋な学生としては、春秋恒例の「特別拝観」を中心にドッと観光客が押し寄せ、町中が混雑するのにひたすら顔を顰めていただけだったが、ようやくここに至って京都の事に思いが及んだ。
そこで、早速ガイドブックを何冊も買って来て、研究を始めた。
(さて、どの庭園がいいのやら・・・)
考えてみれば、かつて京都に住んでいながら、実際に足を運んだ寺社といえば有名どころばかりであり、それもガイドブックで見るような立派な庭園がある事すら、まったく知らなかったのである。
殊に、どの本を見ても「京都を代表する大寺院」として「妙心寺」などと並んで「大徳寺」が麗々しく誌面を飾っているのには驚いた。
なぜ「大徳寺」でそれほど驚いたかといえば話は簡単で、なにしろその学生時代を過ごしたマンションというのが、この「大徳寺」のすぐ近く(というよりは、殆ど隣接していた)の「北区紫野大徳寺門前町××」という住所だったからで、当然の事ながら「大徳寺」の存在だけは、よく知っていたのである。
引越し当初から
(なんだ、寺の隣かよー・・・なんか抹香臭くてやだな。それにしても、やたらとデカイ寺だ・・・)
と驚いたのに始まり「特別拝観」の時は、押し寄せる観光客の多さには
(こんな辛気臭いものを、好んでわざわざ観に来るとは奇特な事だ・・・)
などと辟易したりしながらも、終ぞ一度として境内に足を踏み入れた意識もなかった。もっともその意識がなかっただけで、実際にはそうとは知らずに何度かは門を潜っていたのだったが、寺の敷地とは思えぬあまりの広さだから、てっきり「町」だと思い込んでいたのも、決して無理からぬところだった。
なにしろ敷地内に27もの塔頭を所有しているという、京都でも妙心寺と並ぶ有数の大寺院なのである。
<大徳寺は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある禅宗寺院で、臨済宗大徳寺派大本山である。山号を龍寶山(りゅうほうざん)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。
京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿、法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭(たっちゅう、本山寺院の境内周辺にある関連寺院)が立ち並び、近世の雰囲気を残している。大徳寺は歴代多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物、庭園、障壁画、茶道具、中国伝来の書画など、多くの文化財を伝えている。
大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)、播磨国(兵庫県)に、同国守護・赤松氏の家臣・浦上(うらのえ)氏の子として生まれた。11歳の時、地元の大寺院である書写山円教寺に入り、天台を学ぶが、のち禅宗にめざめ、鎌倉の高峰顕日(こうほうけんにち)、京の南浦紹明(なんぽじょうみん)に参禅。南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るにしたがって宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。
その後数年、京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)(元応元年・1319年とも)、同郷の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂を建立した。これが大徳寺の起源とされる。花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)、大徳寺を祈願所とする院宣を発している。寺院としての形態が整うのは、この頃からと思われる。後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発した。
しかし、建武の新政が終わって足利氏が天下を取ると、後醍醐天皇と関係の深い大徳寺は足利氏から軽んぜられ、五山十刹から除かれてしまった。至徳3年(1386年)には、五山十刹の最下位に近い十刹の第9位とされている。このため大徳寺は、政府の庇護と統制下にあり世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心する独自の道をとった。五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺、妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。
その後の大徳寺は、貴族、大名、商人、文化人など、幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う人びとが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎、千利休をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。
享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467
- 77年)で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商らの協力をえて復興。近世以降も、豊臣秀吉や諸大名の帰依を受けた。江戸時代初期に幕府の統制を受け元住持である名僧、沢庵宗彭が紫衣事件と呼ばれる流罪の圧迫を受けたが、幕府との関係ものちに回復した。寺運は栄え今日に至っている。
伽藍
勅使門、三門、仏殿、法堂(はっとう)がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の北・南・西に20ヶ寺以上の塔頭寺院が並ぶ。
勅使門 (重要文化財)
慶長年間(1596年 - 1614年)建立の御所の門を下賜され、寛永17年(1640年)に移築されたもの。
三門(重要文化財)
二層の山門。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)、千利休が上層を完成させて金毛閣と名づけられた。利休は上層に自身の木像を安置した(つまり、門をくぐる者は、利休の下を通ることになる)が、これが豊臣秀吉の怒りを買い、秀吉はこのことを楯に利休に自決を迫ったという。
仏殿 (重要文化財)
寛文5年(1665年)、京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)の寄進で建てられた。
法堂(はっとう、重要文化財)
寛永13年(1636年)、小田原城主稲葉正勝の遺志により、子の正則が建立した。
方丈および玄関(国宝)
方丈は寛永12年(1635年)、玄関はその翌年、豪商・後藤益勝の寄進で建てられたもので、開祖大燈国師(宗峰妙超)300年遠忌を記念して新築されたものである。「方丈」は元来は住職の居室を指したが、日本の禅寺の方丈は接客・儀式空間の意味合いが強い。通常の方丈建築は、前後2列、左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列、左右4列の計8室をもつ特異な形式で、向かって右から2列目の2室は、開祖大燈国師(宗峰妙超)の塔所(墓所)である雲門庵となっている。
宗峰は、「自分の死後に、墓所として別の寺院を建てるには及ばぬ」と遺言していたため、このような形式になっている。方丈の障壁画は狩野探幽の作。枯山水庭園は、国の特別名勝および史跡に指定されている。
唐門(国宝)
聚楽第の遺構と伝える。華麗な装飾彫刻と彩色を持つ桃山建築である。
塔頭寺院
塔頭寺院においては、拝観を認めているところと認めていないところが混在するため、訪問者においては注意が必要である。現在、大部分の塔頭で一般参詣を認めておらず、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峰院、大仙院、高桐院の4か院である(2008年現在)
出典 Wikipedia
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