2004/01/05

勧修寺~随心院(世紀末の花見part1) 

 花見といえば、一昨年は「清水寺・円山公園・八坂神社・嵐山天龍寺」、そして昨年は「知恩院・高台寺・平野神社・大阪城・天龍寺・南禅寺・銀閣寺・哲学の道・岡崎・平安神宮」と有名どころを一気に廻った事に加え、特に前年は各地で滅多にないようなソメイと枝垂れの競演を堪能出来た事で

「今年は一体、どこへ行けばいいんだ・・・?」

と、頭を悩ませたところであった。

前年は観光コースの定番のような、有名寺院や大寺院ばかりを廻った事を受けて、初日は比較的地味目だがそれぞれ由緒のある寺社が点在する、山科地区を中心にコースを組んでみたのである。

最初に訪れたのは「勧修寺」という寺院だ。

≪勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山で、山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音である。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。

寺名は「かんしゅうじ」、「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。

 

勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改めたもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師。

代々、法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、1470年(文明2年)兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された。 宮道弥益は山城国宇治郡(現・京都市山科区)の大領(郡司)であった。弥益の娘・宮道列子は藤原北家の流れを汲む内大臣藤原高藤に嫁した。彼らの間に生まれたのが、宇多天皇女御・醍醐天皇生母となった胤子である。高藤の流れを汲む家系を、寺名にちなんで勧修寺流という。なお、高藤と列子のロマンスについて『今昔物語集』に説話が残されている。

創建年代については、上述の通り昌泰3年とするのが一般的だが異説もある。 勧修寺は延喜5年(905年)、定額寺に列せられているが、この時の太政官符には「贈皇后(胤子)が生前に建立した」旨の記述があり、これにしたがえば、胤子の没した寛平8年(896年)以前の創建となる。前述の通り、勧修寺は延喜5年(905年)に定額寺に列せられ、皇室と藤原氏の援助を受けて栄えた。天永元年(1110年)、7世長吏となった寛信(1084 - 1153)は藤原高藤8世の孫・藤原為房の子で、東寺長者、東大寺別当などを歴任した人物である。「勧修寺法務」とも称された寛信は真言密教の事相に通じ、真言宗小野流の一派である勧修寺流の祖とされている。
出典 Wikipedia



続いて平安時代を代表する女流歌人、小野小町の住居跡といわれる寺院である「随心院」を訪ねる。

随心院は、京都市山科区小野にある真言宗善通寺派大本山の仏教寺院。小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)の開基。本尊は如意輪観音。寺紋は九条藤。当寺の位置する小野地区は、小野氏の根拠地とされ、随心院は小野小町ゆかりの寺としても知られる。

 

随心院は、仁海(954 - 1046)が創建した牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひさんまんだらじ)の塔頭であった。仁海(954 - 1046)は真言宗小野流の祖である。神泉苑にて雨乞の祈祷をたびたび行い、そのたびに雨を降らせたとされ、「雨僧正」の通称があった。曼荼羅寺は仁海が一条天皇から寺地を下賜され、正暦2(991)に建立した寺である。伝承によれば、仁海は夢で亡き母親が牛に生まれ変わっていることを知り、その牛を飼育したが程なく死んだ。それを悲しみ、その牛の皮に両界曼荼羅を描き本尊としたことに因んで、「牛皮山曼荼羅寺」と名付けたという。なお、これと似た説話は『古事談』にもあるが、そこでは牛になったのは仁海の母ではなく父とされている。

5世住持の増俊の時代に、曼荼羅寺の塔頭の一つとして随心院が建てられた。続く6世顕厳の時には順徳天皇、後堀河天皇、四条天皇の祈願所となっている。東寺長者や東大寺別当を務めた7世親厳(1151 - 1236)の時、寛喜元年(1229年)に後堀河天皇の宣旨(せんじ)により門跡寺院(皇族や摂家出身者が住持として入寺する寺院)となった。その後一条家、二条家、九条家などの出身者が多く入寺している。

その後、多くの伽藍が建造され、山城、播磨、紀伊などに多くの寺領を有したが応仁の乱により、ほとんど焼失した。『隨心院史略』によれば、応仁の乱後は寺地九条唐橋や相国寺近辺などへたびたび移転している。その後慶長4年(1599年)、24世増孝(九条家出身)の時、曼陀羅寺の故地に本堂が再興されている。

 

境内には、約230本の梅の木がある。山紅梅、白梅、薄紅梅などがあり2月末から咲き始め3月中旬が見頃となる。もっとも多い薄紅梅の色である薄紅梅色を「はねずいろ」ということから「はねずの梅」とも呼ばれている。

随心院が所在する小野は、小野氏の一族が栄えたところである。宮中で仁明天皇に仕え歌人として知られる小野小町もこの地の出で、宮中を退いて後も過ごしたとされる。随心院には小町の晩年の姿とされる卒塔婆小町像を始め文塚、化粧の井戸などいくつかの遺跡が残る。
出典 Wikipedia
小野梅園」の梅が有名であり、桜は数こそそれほど多くはなかったが、目を瞠るような一本の大きな枝垂れ桜が、醍醐の山をバックに圧倒的な存在感である。

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