2004/01/26

東寺を満喫(夏の京part7)

御影堂(国宝)
かつて空海が住房としていた、境内西北部の「西院」と呼ばれる一画に建つ住宅風の仏堂である。前堂、後堂、中門の3部分からなる複合仏堂で、全体を檜皮葺きとする。昭和33年(1958年)の国宝指定時の名称は「大師堂」であるが、寺では主に「御影堂」の名称を用いている。

当初の堂は康暦元年(1379年)の火災による焼失後、その翌年に後堂部分が再建された。10年後の明徳元年(1390年)、弘法大師像を安置するために北側に前堂、その西側に中門が増築された。後堂(南側)には、空海の念持仏とされる不動明王坐像(国宝、9世紀)を安置する。厳重な秘仏で非公開であるが、日本の不動明王像としては最古の作例の1である。

北側の前堂には、弘法大師坐像(国宝)を安置する。この像は東寺の親厳の依頼により、天福元年(1233年)運慶の4男康勝が制作したもので、空海の弟子の真如が描いた空海の肖像とほぼ同じといわれている。この像は庶民の信仰を広く集めており、像の前では毎朝6時に「お大師様」に朝食を捧げる「生身供」(しょうじんく)が執り行われ、多くの参拝者が集まる。

大日堂
平成12年(2000年)に大改修を終えた。浜田泰介の障壁画がある。大日如来像を安置する。

大日如来像(平安時代造)

毘沙門堂
御影堂の南側にある。以前、羅城門の二階にあった兜跋毘沙門天を安置するために建てられた。兜跋毘沙門天(国宝)は現在、宝物館に収蔵。京都の都七福神(毘沙門天)である。

灌頂院(重要文化財)
境内南西隅に位置する。伝法灌頂(密教の奥義を師匠から弟子へ伝える儀式)、後七日御修法(ごしちにちのみしほ:正月の8日から14日までの間に、天皇の安泰を祈願する儀式)などの儀式を執り行うための堂で、内部には仏像は安置されていない。床は石畳になっており、土足厳禁となっている。

宝蔵(重要文化財)
拝観入口の慶賀門の南側、掘割で囲まれた中に建つ。平安後期建立の校倉(あぜくら)造倉庫で、東寺最古の建造物である。

鎮守八幡宮
南大門を入った左側にある。明治元年(1868年)に焼失後、1世紀以上を経た平成4年(1992年)に再建。東寺の鎮守神である僧形八幡神像と女神(じょしん)像2体を安置する。薬子の変の際、空海はここで嵯峨天皇勝利の祈祷を行っている。

南大門(重要文化財)
明治28年(1895年)、三十三間堂の西門を移築したもの。九条通り(九条大路)に面しており、京阪国道口交差点から東へ約100mの場所にある。


蓮花門(国宝)
鎌倉時代再建の八脚門。本坊西側、壬生通りに面して建つ。

小子房
昭和9年(1934年)に再建されたもの。内部は6個の部屋(鷲の間、雛鶏の間、勅使の間、牡丹の間、瓜の間、枇杷の間)からなる。各部屋の障壁画は、堂本印象により描かれた。小子房の西の門は蓮華門と呼ばれ国宝である。

太元堂
北大門を出た右側にある。鎮護国家を司るという大元帥明王と四天王を祀る。大元帥明王は、憤怒の形相であるといわれている。

弁天堂
北大門を出た右側にある。音楽・技芸・財産を司るという弁才天を祀る。

東寺宝物館
北大門を出た左側にある。春や秋の観光シーズンなどに、普段公開しない寺宝を展示する。

観智院 五大の庭(塔頭
北大門を出て、櫛笥(くしげ)小路を進んだ右側に位置する。塔頭寺院であるが、別格本山となっている。学僧であった杲宝(ごうほう)を1世として延文4年(1359年)に子院として創建された。杲宝は現在、国宝となっている「東宝記」という東寺の創建から、室町時代に至る寺史をまとめた。これは弟子の賢宝により補足完成された。観智院は、東寺のみならず真言宗全体の勧学院と位置づけられ、多くの学僧を排出している。経蔵である金剛蔵には膨大な文書・典籍・聖教類が所蔵されていたが、現在は東寺宝物館に移されている。通常非公開であるが、春秋などに特別公開される場合がある。


客殿(国宝)
慶長10年(1605年)の建立。桃山時代の典型的な書院造りの建造物として国宝に指定されている。上の間には、宮本武蔵筆といわれる「鷲の図」などの襖絵がある。客殿南の庭園は「五大の庭」と称される。

本堂
本尊の五大虚空蔵菩薩像は唐からの請来像で、青龍寺の本尊であったものといわれている。

宝菩提院
弘安2年(1279年)創建と伝えられる。櫛笥小路沿いの、観智院の北側にある塔頭である。別格本山となっている。もとは観智院と櫛笥小路をはさんで東西対称に建てられていたが、明治14年(1881年)「総黌」(そうこう)開学に伴い現在地に移転した。総黌は現在、洛南高等学校となっている。観智院の道をはさんで向かい側には、宝菩提院の正門であった古い本瓦葺きの門がある>
出典 Wikipedia

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