そんなわけで
(一度は「吉野の千本桜」なるものを、この目で・・・)
という思いは持ち続けたものの、何度か行った事があるという旅好きな友人からは
「千本桜とか騒がれるけど、昔に比べるとあんまりって感じだな・・・木が歳を取ってしまって、新しいのを育ててないんじゃないかな・・・以前のような、若々しい勢いのようなものがないねー」
と繰り返し訊かされていたのも、足を運ぶ決心が付かない一つの要因ではあった。とは言え、やはり何といっても「腐っても(?)吉野」であるからには、やはり一度はこの目で見てみたいという欲求には抗しきれず、遂に10年越しの計画を実行に移す事になったのである。
名古屋からだと交通至便の京都は近いが、吉野は遠い。距離的にはそれほどでもないかもしれないが、なにせ交通の弁がよろしくない。前日、橿原市のホテルに泊まっていたので、この日は朝早く起きて橿原神宮を見物してから近鉄橿原神宮前で近鉄電車に乗り、吉野へ向かうことにした。
花見のシーズンという事もあってか、オンボロのローカル電車もそれなりの乗車率を確保していた。車窓には一面田んぼや畑ばかりが延々と続く、懐かしいような風景が広がっている。約40分で吉野駅に到着すると、桜が咲き誇る山ばかりに視界が埋め尽くされた。
出典 Wikipedia
<吉野山は、平安時代頃から桜が植え続けられてきた。特に桜が数多く集まる所があり、いずれも一目千本と呼ばれ山下の北から山上の南へと順に下千本・中千本・上千本・奥千本と呼ばれている。殆どが白山桜(シロヤマザクラ)であり、その数は約3万本にも及ぶという。これらの桜は、4月初旬から末にかけて、山下の下千本から順に山上へと開花してゆく。この時期の吉野山は、花見客で大変、賑わう。
下千本は、近鉄吉野駅から山上へ上がる、七曲坂周辺にあたる。中千本は、五郎兵衛茶屋から如意輪寺にかけての一帯。上千本は、火の見櫓から花矢倉にかけての坂周辺にあたる。奥千本は、吉野水分神社から金峯神社にかけて。また苔清水、西行庵付近。かつては高城山から金峯神社にかけても数多くの桜樹があり名所であったというが、現在は杉桧が繁っている。
ロープウェイで、吉野山駅まで上がる。桜は満開にはやや早い感じであり、またロープウェイの窓ガラスが薄汚れていたために、折角の景観も台無しなのは勿体無い事だ。吉野山に桜が多いのは、桜が蔵王権現(ざおうごんげん)の神木であるとされたことによる。修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ)は、金峰山(現在の大峰山系)で修行を積み、その結果、金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)が出現して、これを感得し蔵王権現像を彫ったとされる。その時に用いられた木材が桜樹であった。
以降、行者達は桜材を使い権現を彫刻し、これを祀る習わしとなった。これより桜は神木となり、桜の枯れ木といえども薪にさえせず、一枝を折る者は指一本を切るといったような、厳しい信仰が厳守されたという。そのため蔵王権現に祈願する際には、神木とされる桜の苗を寄進するのが最善の供養となる風習が起こり、平安時代の頃から多くの桜が植えられるようになった。
また大海人王子(のちの天武天皇)が、吉野の寒中で庭の桜が満開の夢を見て、これが動機となって天下を定めたので、桜は霊木であり神木であるとされ桜の愛護が始まったとも伝えられる。
<大和の国 、吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と称し、古代より世に広く知られた聖域でした。この金峯山に、役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得されます。
この姿を桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀されます。これが、金峯山寺の開創と伝えられています。
明治7年(1874年)、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期廃寺となり復職神勤しますが、同19年(1886年)に天台宗末の仏寺として復興。 昭和23年(1948年)には、蔵王堂(国宝)を中心に金峯山修験本宗が立宗し、その総本山として今日に至っています。山号は国軸山、宇宙の中心の山という意味を号しています>
<金峯山寺の本堂。秘仏本尊蔵王権現(約7m)三体のほか、多くの尊像を安置しています。重層入母屋造り、桧皮葺き、高さ34メートル、四方36メートル。堂々とした威容の中に優雅さがあり、大変勝れた建築という高い評価を得ています。金峯山寺内では古くから、白鳳年間に役行者(えんのぎょうじゃ)が創建されたと伝えており、また奈良時代に行基菩薩が改修されたとも伝えています。
その後、平安時代から幾度か焼失と再建を繰り返し、現在の建物は天正20年(1592)頃に完成したものです。大正5年から13年にかけて解体修理が行なわれ、昭和55年から59年にかけて屋根の桧皮の葺き替えを主として、大修理を行ないました>
正面5間、側面6間、建物の周りに藻腰を付けた入母屋造り、桧皮葺。高さ約34mは、木造建築としては奈良・東大寺の大仏殿に次いで日本で二番目の大建築であり、京都の大建築群との比較は難しいものの「吉野の蔵王堂は凄いよ・・・」 と散々訊かされていただけに思ったほど驚く事はなかったし、一部が修復中になっていたのは惜しまれる。
とはいえこんな山奥のこんな狭い道を通って、よくぞこんなバカデカイものを造る事が出来たものだと、ただただ感心するばかりだ。
続けて吉水神社、勝手神社と見て廻り、時折目にする「一目千本」という看板に釣られて茶席に入ろうと試みるも、どこもが満席で結局貸し座敷に落ち着いて酒を飲みながら、桜を眺める事にした。しばらくして重い腰を上げると、個人的には蔵王堂とともに最も期待していた「竹林院庭園」へと足を運ぶ。
<818年(弘仁9)、空海が入峯した時に建てた椿山寺[ちんざんじ]に始まるといわれ、金峯山寺四律院に数えられたが、現在は単立寺院。境内の小高い位置に広がる池泉回遊式庭園の群芳園[ぐんぼうえん]は、大和三庭園の一つ。秀吉の花見の際に千利休が作庭、細川幽斎[ゆうさい]が改修したと伝えられ、吉野の山を借景とする。寺は格調高い宿坊としても知られる>
当麻寺中之坊、慈光院庭園と並び「大和三庭園」に数え上げられるのが千利休作庭の「竹林院群芳園」であり、吉野山西側をのぞむ池泉回遊式の借景庭園は、期待通りの素晴らしさであった。
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