2004/01/23

大徳寺高桐院(夏の京都part4)

さて、最後は今宮通側にグルリと迂回して「高桐院」を訪ねる。

<高桐院は、京都府京都市北区紫野にある臨済宗大本山大徳寺の塔頭のひとつである。開基(創立者)は細川忠興(三斎)、開山(初代住職)は玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)である。

本堂(客殿)・・・長谷川等伯が描いたとされる襖絵があったが、明治時代初期の廃仏毀釈で失われてしまっている。現在の建物は、三斎の末裔にあたる侯爵・細川護立(もりたつ)が寄進したものである。

庭園・・・通称「楓の庭」と呼ばれる簡素ながら趣のある庭で、一面の苔地の中に一基の灯籠が据えられている。


鳳来(茶室)
・・・裏千家・円能斎好みの茶室で、前庭に置かれている蹲踞は朝鮮出兵の際に加藤清正が持ち帰り、三斎に贈られたものと伝わる。

書院
・・・意北軒(いほくけん)と呼ばれ、千利休の邸宅を移築したといわれる。



松向軒(しょうこうけん)・・・利休の茶を忠実に継承したといわれる三斎好みの茶室で、豊臣秀吉が催した北野大茶会の際につくった茶室を移築したといわれる。

墓所・・・本堂庭園には、三斎公とガラシャ夫人の墓塔となっている春日灯籠がある。この燈籠は三斎が生前こよなく愛し、自ら墓標に指定したといわれる。また、本堂裏手には非公開の墓地があり、三斎公とガラシャの嫡男で追放された細川忠隆こと長岡休無や、出雲阿国、名古屋山三郎の墓がある。

国宝・絹本墨画山水図 2幅 附:絹本墨画楊柳観音像・・・高桐院の開創以来伝わる2幅の山水画で、南宋の宮廷画院の画家であった李唐(りとう)作品である。2幅のうち、1幅に描かれた樹木の部分に「李唐画」の隠し落款(サイン)があることが確認されている。元は中央に楊柳観音像(国宝の「附」として指定)、左右に山水図を配した三幅対(さんぷくつい)とされていたもので、3幅とも唐の呉道子(ごどうし)の作といわれていた。

重要文化財・絹本着色牡丹図 2・・・中国・元の花鳥画家である銭舜挙(せんしゅんきょ)の作といわれる牡丹図の傑作で、秀吉の北野大茶会に用いたとされている。

玉甫紹琮像・・・高桐院の開山・玉甫紹琮64歳の頂相で、長谷川等伯最晩年の作と伝わる。

高士騎驢図屏風・・・長谷川等伯の作とほぼ確認できる四曲一隻の屏風で、明治の廃仏毀釈によって寺外に一時流出していた。

日吉山王祭礼屏風
・・・滋賀県大津市・日吉大社の山王祭を描いた六曲一双の屏風で、根拠は乏しいが土佐派を再興した土佐光起(とさみつおき)の作と伝わる。

青井戸茶碗・・・「緑毛」の銘がある井戸茶碗の名品で、利休が愛用したものと言われる。>
出典 Wikipedia

紅葉の美しいので有名な寺院だが、季節は夏とあって今は緑が鮮やかである。

 

表門から鍵の手になった敷石道の参道を歩いていると、さっきまでは耳を聾するばかりだったクマゼミの声が、一斉にヒグラシのそれに変わっているのはなんとも不思議だ。同じ大徳寺境内の中で、セミも縄張りを守って棲み分けているのだろうか?

 紅葉で名高いこの寺院だけは、これまでの4寺院と違い枯山水庭園がない代わりに、青々としたビロードの苔庭である。枯山水を鑑賞していた時は、あの独特の一種異様な緊張感が堪らなく感じたものだったが、今度は開放的な普通の日本庭園に来ると

 (やっぱり、こっちの方が落ち着くな)

 と思ってしまうから、ゲンキンなものだ。とはいえ、次にまた枯山水を見れば

 (やっぱりこっちの方がいいかな)

  
 と思えて来る事だろう。

 いずれにしても、あれだけの数の枯山水庭園を見て緊張感で喉がカラカラになっていたところへ一服の清涼剤という感じで、拝観の順序としては意図していなかったものの、理想的だったといえよう。

 いずれにしても、あれだけの数の枯山水庭園を見て緊張感で喉がカラカラになっていたところへ一服の清涼剤という感じで、拝観の順序としては意図していなかったものの、理想的だったといえよう。

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