坂本は、滋賀県大津市の地区名。延暦寺および日吉大社の門前町として古くから栄えた。現在の地名は坂本1~8丁目、下阪本、坂本本町など。日吉大社参道の両側には、比叡山の隠居した僧侶が住む里坊が並ぶ。また、穴太衆積み(あのうしゅうづみ、穴太積みとも)と呼ばれる石垣が街路を形成している。この町並みは地域的特色を顕著に示しているものとして、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
安土桃山時代には、明智光秀により坂本城が築城された。しかし、本能寺の変や続く山崎の戦い後に明智秀満が城に火を放ち、そのまま廃城となっている。
出典 Wikipedia
激動を経て、静寂を味わう
比叡山麓、坂本は古くから延暦寺の門前町として栄え、比叡山の守護神である山王総本宮 日吉大社をはじめ、天海大僧正造営の日吉東照宮、天台真盛宗総本山 西教寺、歴代天台座主の住居だった滋賀院門跡、江戸期の名庭園をもつ数多くの延暦寺里坊など、豊富な史跡と自然が息づく静かな佇まいの町。修行僧も食べた、坂本名物の蕎麦も召し上がれます。
穴太衆積みの石が美しい坂本の街は、比叡山の東玄関として通り過ぎてしまうには、あまりにももったいない魅力が、そこここに息づいています。
穴太衆積みの町
日吉大社参道の両側、寺院・里坊の周囲に築かれた石垣。大小の自然石を巧みに積み上げたもので、大津市の指定文化財です。
安土城・江戸城の石垣築城に活躍した「穴太衆」による石積みです。積み石の比重のかけ方に特徴があり、表面から1/3程度奥に重力がかかるように設計され、石垣の奥に栗石層、そのまた奥に小石を詰め、排水を良くする工夫がされています。この秘伝の技のおかげで、堅牢にして美しい石垣が平成の世に残されているのです。
日吉大社
紅葉の鮮やかな日吉大社の鳥居。全国四千あまりの山王さんの総本宮として君臨する日吉大社。境内には、国宝の東本宮・西本宮両本殿など、建築美を誇る社殿のほか、大宮川にかかる豊臣秀吉寄進にして日本最古といわれる石橋、日吉三橋(重要文化財)があります。
慈眼堂
坂本を語るときに、明智光秀と並んで欠かせない人物である慈眼大師・天海大僧正。信長の比叡山焼討ち後の復興に力を注ぎ、徳川家康・秀忠・家光に仕え大僧正を祀るのが、この慈眼堂です。境内には歴代天台座主のお墓や、桓武天皇・徳川家康・紫式部・和泉式部の供養塔もあります。
日吉東照宮
1634(寛永11)年、天海大僧正が日光東照宮のモデルとして建造した近世霊廟風の華やかな建造物で、徳川霊廟建築の根本をなしたといわれます。
滋賀院門跡
日吉大社と天台宗に8カ寺ある門跡寺院のひとつ。天海大僧正が後陽成上皇より京都の御所の高閣を賜り移築され、後水尾上皇より滋賀院の号を賜りました。穴太衆積の石垣が白土塀に調和し、風格あるたたずまいを見せています。また、内仏殿、庭園(小堀遠州作)や襖絵(狩野派・渡辺了慶作)も見逃せません。
旧竹林院
延暦寺のもと里坊のひとつで、邸内には八王子山を借景にした3300平方メートル(1000坪)の回遊式庭園が広がり、国の名勝に指定されています。全国でも2カ所しかない、入母屋造りの茅葺茶室「天の川席」を持つ四阿(あずまや)は、大津市の指定文化財。
西教寺
天台真盛宗の総本山です。広大な境内に建つ、江戸中期に上棟落成した総欅入り母屋造りの本堂は、豪壮の一言。また、客殿は桃山様式の伏見城の遺構です。ほかにも、水城として名高かった坂本城の陣鐘や、その鐘を寄進した明智光秀一族のお墓があります。門前からの、びわ湖の眺望も見どころです。
日吉大社(ひよしたいしゃ、かつては「ひえたいしゃ」)は、滋賀県大津市坂本にある神社。俗に山王権現とも。日本全国に約2000社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮である。旧社格は官幣大社。中世には二十二社の下八社のひとつとされた。
西本宮と東本宮を中心に、400,000m²の境内を持つ。猿を神の使いとして崇拝することで知られている。
文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見である。
牛尾山(八王子山)山頂に磐座があり、これが元々の信仰の地であった。磐座を挟んで2社の奥宮(牛尾神社・三宮神社)があり、現在の東本宮は崇神天皇7年に牛尾神社の里宮として創祀されたものと伝えられている。三宮神社に対する里宮は樹下神社である。
近江京遷都の翌年である天智天皇7年、大津京鎮護のため大神神社の神を勧請した。以降、元々の神である大山咋神よりも大己貴神の方が上位とみなされるようになり「大宮」と呼ばれた。
平安京遷都により、当社が京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになった。延喜式神名帳では名神大社に列格し、さらに二十二社の一社ともなった。
最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬した。中国の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって、山王権現と呼ばれるようになった。延暦寺では、山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いた。中世に比叡山の僧兵が、強訴のために担ぎ出した神輿は日吉大社のものである。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国に勧請・創建された。
元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は、安土桃山時代以降に再建されたものである。信長の死後、豊臣秀吉は当社の復興に尽力した。これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であることから、当社を特別な神社と考えたためである。
明治に入ると神仏分離令により、仏教色が廃された。また、本来の形に戻すとして、東本宮と西本宮の祭神を入れ替えて西本宮の大山咋神を主祭神とし、大物主神を祀る東本宮は摂社・大神神社に格下げした。昭和初年に元の形に復した。
境内
かつては境内108社・境外108社と言われていた。東本宮境内の各社は「大山咋神の家族および生活を導く神々」と説明されている。
国宝
西本宮本殿 - 1586年(天正14年)の建立。檜皮(ひわだ)葺きで、屋根形式は「日吉造」という、日吉大社特有のもの。正面から見ると入母屋造に見えるが、背面中央の庇(ひさし)部分の軒を切り上げ、この部分が垂直に断ち切られたような形態(縋破風)になっているのが特色。
東本宮本殿 - 1595年(文禄4年)の建立。建築形式は、西本宮本殿に似る。昭和初期までは「大神神社本殿」と呼ばれていた。
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