東京・目黒区に「権之助坂」があります。「権之助坂」という名が、人名に由来するものだとは誰しも見当の付くところでしょうが、なんとなく名前の響きがユーモラスなところから
「権之助」ってのは、一体どんな人物かいな・・・?
と気になって調べてみましたところ、意外な物語に出くわしました。
≪江戸の中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がいた。あるとき、村人のために、年貢米の取り立てをゆるめてもらおうと訴え出るが、その行為がかえって罪に問われてしまう。なんとか助けてほしいという村人の願いも聞き入れられず、権之助は刑に処せられることになり引かれて行く。
「権之助、なにか思い残すことはないか」
と問われて
「自分の住んだ家が、ひと目見たい」
と答える。
馬の背で縄にしばられた権之助は、当時新坂と呼ばれていたこの坂の上から、生まれ育ったわが家を望み
「ああ、わが家だ、わが家が見える」
と、やがて処刑されるのも忘れて喜んだ。父祖の家を離れる悲しみと、村人の明日からの窮状が権之助の心を去来したかも知れないが、それは表情には現わさなかった。村人は、この落着いた態度と村に尽した功績をたたえて、権之助が最後に村を振り返ったこの坂を「権之助坂」と呼ぶようになったといわれている。
また、一説によると権之助は、許可なく新坂を切り開いたのを罪に問われたといわれている。昔の道路は、江戸市中から白金を通り、行人坂をくだって太鼓橋を渡り大鳥神社の前に抜けていた。この道があまりにも急坂で、しかも回り道をしていたので、権之助が現在の権之助坂を開き、当時この坂を新坂、そして目黒川にかかる橋を新橋と呼んでいた≫
《封建時代の道路は軍略的に重要な要素であり、そのため一直線を避けてあっちこっち曲げたりして見通しを遮るように造られており、通行人の利便性などはハナから眼中になかったのでした。こうした社会で、もし権之助が勝手に新坂を開いたとすれば、たとえ村人のためとはいえ、やはり罪に問われるのは当然であったと言えます》
この他にも《大泥棒権之助がこのあたりに住んでいて、その霊を慰めるためにこの名が付いた》などという突飛な説まで出てきました。
●ポリネシア語による解釈
●ポリネシア語による解釈
《「(ン)ガウ(ン)ガウ・ツケ」、NGAUNGAU-TUKE(ngaungau=raise a cry,make a disturbance;tuke=elbow,angle,bend)、「(あまりにも急傾斜で長いので)悲鳴を上げる曲がった(坂)」(「(ン)ガウ(ン)ガウ」の初めのNG音がG音に、次のNG音がN音に変化し、AU音がいずれもO音に変化して「ゴノ」となり、「ゴノ・ツケ」が「ゴンノスケ」となつた)》という事のようです。
ちなみに、お隣の神奈川県には「権太坂」という良く似た坂名があります。権太坂を上りきったところまでが、江戸の属する武蔵国であり「江戸周辺のおもろい地名」としては範囲を充たしている事になります。権太坂の方は、正月恒例の「箱根大学駅伝」の難所のひとつになっており、毎年TV中継されていたり「権太坂」の名のついた学校まであったりするらしいため、知名度では「権之助坂」以上と言えるかもしれません。
港区にある「権田原坂」とともに、どちらも「権太」という人名に由来するそうです。
0 件のコメント:
コメントを投稿