2004/07/05

穴太


 古都・京都と湖国・滋賀の境に跨るようにして聳え立つ比叡山は、かつての織田信長の焼き討ちと伝教大師・最澄で有名な天台宗総本山の「延暦寺」で知られる有名な霊山であるとともに、関西地方を代表する山としてケーブルやドライブウェイが整備され、近年では観光コースとしてもよく知られています。京都側からは雲母(きらら)坂から修学院を見下ろし八瀬からのケーブルで登って行くコース、一方滋賀側からは石積みの町としてしられる坂本からのケーブルとドライブウェイがあり、どちらからも素晴らしい眺望が楽しめます。

この滋賀県・坂本側、つまり大津市ですが、ここに「穴太」と書いて「あのう」と読む地名があります。城などに興味のある方なら「穴太衆積み」という言葉をご存じでしょうが、この地名がその発祥に纏わるものでした。

大津市坂本《日吉大社参道両側や寺院・里坊の周囲に築かれた石垣を「穴太衆積み」と言う。大小の自然石を巧みに積み上げたもので、その美しさと堅牢さは全国の主な城郭の石垣にも用いられおり、市の指定文化財となっています》   

《現在、この安土城の石垣は、一般には「穴太(あのう)積み」の石垣として知られています。穴太とは、比叡山の麓にある現在の大津市坂本付近の地名ですが、ここには高い技術を持った石工たちが住んでいたといわれており、彼ら穴太衆が安土城築城に動員されて積み上げた石垣のことを、一般的に「穴太積みの石垣」と呼んでいるのです》

穴太とは、大津市坂本付近に今も残る地名。室町時代の末頃、この地に居住し延暦寺の土木営繕的な御用を勤めていた人々は「穴太衆」と呼ばれ、織田信長の安土城を始め江戸時代初期、各地の石垣普請に従事した。大小の整形していない自然石を巧みに積み上げたもので、堅固に積むことから城の石垣などに利用されたという。延暦寺の門前に開けた坂本の町には同寺の里坊が点在しているが、その町並み景観を特色付けているのが穴太衆積み石垣である》

 《「あなふと」ではありません。「あのう」と読みます。穴太とは比叡山の麓で現在の大津市付近の地名ですが、ここには高い技術を持った石工が住んでいたと言われており、彼ら石工衆によって考案された工法として織田信長の安土城構築の時に初めて用いられ、以降近世城郭の基礎となったものです。この「穴太積み」による石垣では、佐賀県の名護屋城のほか県内では玖珠町の角牟礼城が有名です。石材は全て大小不揃いの自然石を用いて、独特の配石をしながら積み上げていく工法であり、歴史的に非常に価値が高いようです》


《穴太とは滋賀県大津市坂本にある地名で、比叡山と関わりのある石工がいました。こうした石工が、城館の石垣築造に技術を発揮したのです。その後、石垣技術者のことをそのまま「穴太衆」と呼ぶようになりました。穴太衆が最初に積んだのは野面積みでしたが、やがて石材を一定の大きさに加工した切石積みになっていきました。切石積みによって正確に必要な石材の数を算出できるうえ、野面積みではできなかった高い石垣、高石垣を築くことが可能となったのです》
※重複御免 m(__)m ●ポリネシア語による解釈
日枝大社のある大津市坂本の南、西近江路の旧街道に沿って近江国志賀郡穴太の地があります。古くは穴穂、穴多とも記され、駅家が置かれました。ここは景行・成務・仲哀の三天皇の高穴穂宮の故地とされ、付近には渡来人の横穴式古墳が数多く存在します。大小の自然石を野積みする技術を持つ石工集団である穴太衆(あのうしゅう)の本拠地でもあります。

この「あのう」は
(1)
『日本書紀』雄略紀19年3月13日に設置された「穴穂部」に由来するとする説
(2)
「アナ(端(はな)の転、崖地・急傾斜地の先端)・ホ(先端。美称)」の意とする説

 があります。

この「あのう」は、マオリ語の「ア(ン)ゴ」、ANGO(gape)、「大きく口を開いた場所(湾、潟など)」の転訛(NG音がN音に変化して「アノ」となり、長音化した)と解します。伊勢国安芸郡安濃(あのう)津、大和国吉野郡賀名生(あのう)なども、同じ語源です。
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

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