2004/07/05

三千院(2001洛北の秋part5)

 三千院は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。三千院門跡とも称する。山号は、魚山(ぎょざん)、本尊は薬師如来、開基は最澄である。

 

京都市街の北東山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1に数えられている。

 

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三千院と往生極楽院

三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源を持ち、後に比叡山東麓の坂本(現・大津市)に移され、度重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移ったものである。

 

三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は1871年以降使われるようになったもので、それ以前は「梶井門跡」「梶井御所」「梶井宮」などと呼ばれ、「梨本門跡」「円徳院」などの別称もあり、「円融房」が正式の寺名だったようである。一方、往生極楽院(旧称・極楽院)は、平安時代末期の12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂であり、1871年に三千院の本坊がこの地に移転してきてから、その境内に取り込まれたものである。

 

境内には往生極楽院のほか、宸殿、客殿などの建物がある。このうち、境内南側の庭園内にある往生極楽院は12世紀に建てられた阿弥陀堂で、内部には国宝の阿弥陀三尊像を安置している(三千院と往生極楽院は、元来は別々の寺院であった)。

 

天台門跡としての三千院

三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦7年(788年)、比叡山延暦寺を開いた時に、東塔南谷(比叡山内の地区名)に自刻の薬師如来像を本尊とする「円融房」を開創したのがその起源という。円融房の傍に大きな梨の木があったため、後に「梨本門跡」の別称が生まれた。

 

比叡山内の寺院の多くは、山麓の平地に「里坊」と呼ばれる拠点を持っていた。860年(貞観2年)、清和天皇の命により、承雲和尚が比叡山の山麓の東坂本(現・大津市坂本)に円融房の里坊を設けた。この里坊を「円徳院」と称し、山上の寺院を「円融房」と称したという説と、「円徳院」と「円融房」は別個の寺院だとする説とがある。

 

1118年(元永元年)、堀河天皇第二皇子(第三皇子とも)の最雲法親王が入寺したのが、当寺に皇室子弟が入寺した初めである。以後、歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入寺し、歴史上名高い護良親王も入寺したことがある。坂本の円融房には、加持(かじ、密教の修法)に用いる井戸(加持井)があったことから、寺を「梶井宮」と称するようになったという。

 

最雲法親王は1156年(保元元年)、天台座主(てんだいざす、天台宗の最高の地位)に任命された。同じ年、比叡山の北方の大原(現在の京都市左京区大原)に梶井門跡の政所(まんどころ)が設置された。これは、大原に住みついた念仏行者を取り締まり、大原にそれ以前からあった来迎院、勝林院などの寺院を管理するために設置されたものである。

 

隠棲、融通念仏、天台声明の場・大原

大原は、古くから貴人や念仏修行者が都の喧騒を離れて隠棲する場として知られていた。文徳天皇の第一皇子である惟喬親王(これたかしんのう、844-897年)が大原に隠棲したことはよく知られ、『伊勢物語』にも言及されている。

 

藤原氏の権力が絶大であった当時、本来なら皇位を継ぐべき第一皇子である惟喬親王は、権力者藤原良房の娘・藤原明子(あきらけいこ)が産んだ清和天皇に位を譲り、自らは出家して隠棲したのであった。大原はまた、融通念仏や天台声明(しょうみょう、仏教声楽)が盛んに行われた場所として知られ、天台声明を大成した聖応大師良忍(1073-1132年)も大原に住んだ。

 

移転と改称

坂本の梶井門跡は、1232年(貞永元年)の火災をきっかけに今の京都市内に移転した。洛中や東山の各地を転々とした後、1331年(元弘元年)に洛北船岡山の東麓の寺地に落ち着いた。この地は、淳和天皇の離宮雲林院があったところと推定され、現在の京都市北区紫野、大徳寺の南方に当たる。船岡山東麓の梶井門跡は応仁の乱(1467-1477年)で焼失し、以後、大原の政所が本坊となった。

 

1698年(元禄11年)、将軍徳川綱吉は当時の門跡の慈胤法親王に対し、京都御所周辺の公家町内の御車道広小路に寺地を与えた。このため、以後近世を通じて梶井門跡は、この地にあった。寺地は現在の京都市上京区梶井町で、跡地には京都府立医科大学と附属病院が建っている。

 

明治維新の際、当時の門跡であった昌仁法親王は還俗(げんぞく、仏門を離れる)して新たに梨本宮家を起こし、公家町(京都御所周辺の寺町広小路)にあった仏像、仏具類は大原の政所に送られた。1871年(明治4年)、大原の政所を本坊と定め「三千院」と改称した。「三千院」は梶井門跡の仏堂の名称「一念三千院」から取ったものである。

 

極楽院

冒頭の説明のように、極楽院(現・往生極楽院)は元来、天台の門跡とは無関係であった。寺伝では恵心僧都源信(942-1017年)の妹、安養尼が985年(寛和元年)に建てたものと伝えられてきたが、実際はもう少し時代が下った12世紀末に、高松中納言藤原実衡の妻である真如房尼が、亡き夫の菩提のために建立したものであり、この史実は、彼女の甥にあたる吉田経房の日記「吉記」の記述により明らかとなっている。1871年(明治4年)に三千院の本坊が洛中から移転してきてからは、その境内に取り込まれた。極楽院を「往生極楽院」と改称したのは1885年(明治18年)のことである。

 

伽藍

正門にあたる境内南側の朱雀門は常時閉じられており、西側の御殿門から入る。城郭を思わせる寺周囲の石垣、白い土塀、門構えなどが門跡寺院の風格を示している。境内北側には宸殿、客殿とそれらを囲む有清園聚碧園と呼ばれる池泉回遊式庭園がある。南側は、瑠璃光庭と呼ばれる杉苔でおおわれた庭園の中に往生極楽院が建つ。



 

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宸殿 - 1926年(大正15年)の建築。中の間には本尊の秘仏薬師如来像、西の間には木造救世観音半跏像(重文)、木造不動明王立像(重文)などを安置する。東の間には下村観山の障壁画がある。本尊薬師如来像は非公開だが、200298日~108日に開扉されたことがある。

 

客殿 - 慶長年間(17世紀初)に建て替えられた、旧御所の旧材を用いたものである。障壁画は竹内栖鳳など、近代日本画の巨匠が担当している。

 

往生極楽院(重文) - 入母屋造、杮(こけら)葺き、妻入(屋根側面が三角形に見える側を正面とする)。内部は船底天井として、中尊の像高2.3メートルの阿弥陀三尊像を堂内の空間一杯に安置する。平安時代末期、12世紀の創建だが、江戸時代の1616年(元和2年)に大幅な修理を受けており、建物の外回りはほとんど江戸時代のものに変わってしまっている。

 

文化財

国宝

阿弥陀三尊坐像 - 往生極楽院の本尊。脇侍の勢至菩薩像像内の銘文から、平安時代末期の1148年(久安4年)の作とわかる。阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊が西方極楽浄土から亡者を迎えに来る(来迎)形式の像で、両脇侍が日本式の正座をしている点が特色である。2002年に国宝に指定されている。

 

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