2004/07/25

青蓮院(2002東山の花見)part3

 青蓮院 (しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口三条坊町にある天台宗の寺院。「青蓮院門跡」とも称する。山号はなし。開基(創立者)は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)である。

 

青蓮院は、三千院(梶井門跡)、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院とされる。「門跡寺院」とは皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院のことであり、青蓮院は多くの法親王(天皇の皇子や伏見宮家などの皇族の男子で、出家後に親王宣下を受けた者)が門主(住職)を務め、宮門跡寺院として高い格式を誇ってきた。江戸時代に仮御所となったことがあるため「粟田御所」の称もある。日本三不動のひとつ「青不動」のある寺としても知られる。

 

歴史

三千院、妙法院などとともに、青蓮院も比叡山上にあった房(小寺院)がその起源とされている。青蓮院は比叡山東塔の南谷にあった青蓮坊がその起源であり、門跡寺院となって山下に移ったのは平安時代末期の行玄大僧正の時である。

 

久安6年(1150年)、鳥羽上皇の后・美福門院は青蓮院を祈願所とした。また、上皇の第7皇子覚快法親王が行玄の弟子として入寺し、以後、皇族や摂関家の子弟が門主を務める格式高い寺院となった。山下へ移転した当初は三条白川(現在地のやや北西)にあったが、河川の氾濫を避け、鎌倉時代に高台の現在地へ移った。ここには、もと十楽院という寺があり、青蓮院の南東にある花園天皇陵は「十楽院上陵」(じゅうらくいんのうえのみささぎ)と称されている。

 

歴代門主(住職)のうち、3代の慈鎮和尚慈円は、歴史書『愚管抄』の著者として著名である。慈円は関白藤原忠通の子で歌人としても知られ、天台座主を4度務めている。また、17代門主の尊円法親王は伏見天皇の第6皇子で、名筆家として知られる。尊円法親王の書風は「青蓮院流」と呼ばれ、江戸時代に広く普及した和様書風「御家流」の源流である。

 

室町時代には、後に室町幕府第6代将軍足利義教となる義円が門主を務めた(同じく第15代将軍足利義昭は、興福寺一乗院の門主であった)。

 

また衰微期の本願寺が末寺として属し、後に本願寺の興隆に尽くした蓮如もここで得度を受けている。

 

江戸時代の天明8年(1788年)、内裏炎上の際、青蓮院は後桜町上皇の仮御所となった。このため「青蓮院旧仮御所」として、国の史跡に指定されている。

 

近代に入り、明治26年(1893年)の火災で大部分の建物が失われた。

 

境内・伽藍

相阿弥の庭

本堂、宸殿、小御所、華頂殿(書院)、叢華殿、好文亭(茶室)などがあるが、いずれも古いものではない。各建物(好文亭除く)は、渡り廊下でつながれている。庭園は室町時代の相阿弥作と伝える築山泉水庭、江戸時代の小堀遠州作と伝える霧島の庭などがある。境内西側には、京都市天然記念物のクスノキの巨木(5本)がある。青蓮院では、例年春と秋に期日を区切って夜間拝観を実施し、庭園のライトアップを行っている。

 

本堂 - 境内奥(南側)に西面して建つ方三間、宝形造の小堂。堂内の厨子には青蓮院の本尊である熾盛光如来の曼荼羅を安置するが、通常は公開していない(天台宗開宗1,200年を記念し、2005928日より同年1228日に公開された)。

 

熾盛光如来とは仏頂尊の一尊で、天台宗最大の秘法といわれる熾盛光法(国家鎮護、皇室の安泰などを祈る修法)の本尊であるが、この如来を寺院の本尊とするのは珍しい。寺伝では文禄5年(1596年)作の掛軸で、中央に種子「ボロン」(bhruuM)で表わした熾盛光如来、周囲に八大菩薩を表わしたものという。本堂の東裏には、国宝の青不動画像の複製が安置されている。

 

小御所 - 本堂の北側に建つ、入母屋造桟瓦葺きの建物。天皇の仮御所として使用された建物を、明治26年(1893年)の焼失後に復興したものである。小御所東側の池を中心とした庭園は室町時代、相阿弥の作と伝え、その北方の「霧島の庭」(霧島つつじを植える)は小堀遠州の作と伝える。小御所近くにある「一文字手水鉢」は、豊臣秀吉の奉納と伝えている。

 


宸殿 - 小御所の西側に建つ、寺内で最も大きな建物。入母屋造、桟瓦葺きで、明治26年(1893年)の焼失後の復興である。「」は皇帝の意で、有縁の天皇の位牌を祀る堂である。障壁画浜松図(襖12面、戸襖4面、壁3面の17面)が、重要文化財に指定されている。なお、1962年に襖のうち1枚が心ない拝観者により切り取られ行方不明となっている。宸殿西方の四脚門(御幸門)は、明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築したもので、明治26年の火災をまぬがれている。

 

好文亭 - 青蓮院を仮御所としていた後桜町上皇が学問所として使用した茶室。1993年に放火で焼失し、2年後に復元されたものである。主室は四畳半台目の茶室で、他に四畳半3室、水屋、仏間がある。

 

植髪堂 - 境内北方、拝観入口の左方に離れて建つ。3代門主慈円について得度した親鸞の剃髪が奉られているといわれる。1759年に建立され、1880年現在地に移転。ちなみに、境内の楠の巨木は親鸞の手植と伝えられている。

 

長屋門 - 拝観入口の手前右手に建つ門で、宸殿西方の四脚門と同様、明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築したもの。

 

将軍塚大日堂 - 寺の南東、東山の山頂に位置し、青蓮院の飛び地境内となっている。桓武天皇が平城京遷都にあたり、王城鎮護のため将軍の像を埋めたところと伝え、京都市街の見晴らしがよい。ここにも庭園があり、春・秋には夜間拝観が実施される。

出典 Wikipedia

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