2004/07/03

貴船神社(2001洛北の秋part3)


 貴船神社は、京都府京都市左京区にある神社である。式内社(名神大)、二十二社の一社で、旧社格は官幣中社。日本全国に約450社ある貴船神社の総本社である。


水神である高龗神(たかおかみのかみ)を祀り、古代の祈雨八十五座の一座とされるなど、古くから祈雨の神として信仰された。古来より、晴れを願う時には白馬が、雨を願う時には黒馬が奉納されたが、実際の馬に代わって木の板に描いた馬が奉納されたこともあり、このことから絵馬が発祥したとも言われる。

また、縁結びの神としての信仰もあり、小説や漫画の陰陽師による人気もあり、若いカップルや女性で賑わっている。その一方で縁切りの神、呪咀神としても信仰されており、丑の刻参りでも有名である。

ただし「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に貴船明神が貴船山に降臨したとの由緒から、丑の刻に参拝して願いを掛けることは心願成就の方法であり、呪咀が本来の意味では無い。平安時代には、丑の刻であるかどうかは不明だが、貴船神社に夜に参拝することが行われていた。時代の変遷と共に本来の意味が変質したものと思われる。

付近は、京都でも有名な紅葉の名所のひとつである。
 
歴史
創建の年代は不詳であるが、社伝では反正天皇の時代の創建としている。社伝によれば、神武天皇の母である玉依姫命が、黄色い船に乗って淀川・鴨川・貴船川を遡って当地に上陸し、水神を祭ったのに始まると伝えている。社名の由来は「黄船」によるものとし、奥宮境内にある「御船型石」が、玉依姫命が乗ってきた船が小石に覆われたものと伝える。「気の産まれる根源」が転じて「気生根」になったともいう。

白鳳6年(666年?)に、最も古い社殿造替えの記録がある。日本後紀に、延暦15年(796年)、東寺の造営の任に当たっていた藤原伊勢人の夢に貴船神社の神が現れ、鞍馬寺を建立するよう託宣したと記されている。

延喜式神名帳には「山城国愛宕郡 貴布禰神社」として記載され、名神大社に列している。後に二十二社の一社とされ、保延6年(1140年)に最高位の正一位の神階を授けられている。

永承元年(1046年)7月、出水により社殿が流出し、天喜3年(1055年)、現在の本宮の地に社殿を再建・遷座して、元の鎮座地は奥宮とした。当社は長らく賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社とされてきたが、これは天喜3年の社殿再建が契起となっているとする説がある。近世以降、それを不服として訴えが続けられ、明治以降になってようやく独立の神社となった。江戸時代までは賀茂別雷神社の祭神である賀茂別雷命も祭神としていた。

施設
社殿は本宮・結社(中宮)・奥宮の3箇所に分かれて建っている。

本宮
本宮は高龗神を祭神とする。本殿・拝殿は、2007年に改築されたばかりである。社務所等は本宮境内にある。

奥宮
奥宮は本宮の上流側700メートルの場所にあり、以前はここが本宮であった。闇龗神(くらおかみのかみ)を祭神とするが、高龗神と同じ神であるとされている。

結社
結社(ゆいのやしろ)は、本宮と奥宮の中間、本宮から上流側300メートルの場所にある。その立地から中宮(なかみや)とも呼ばれている。

磐長姫命を祭神とし、縁結びの神として信仰される。磐長姫命が縁結びの神とされることになった理由として、次のような伝承がある。天孫瓊瓊杵尊が磐長姫命の妹の木花開耶姫と結婚しようとした時、姉妹の父の大山祇命は、磐長姫命も共に奉った。しかし、瓊瓊杵尊は木花開耶姫とだけ結婚したので、磐長姫命はそれを恥じ「縁結びの神として良縁を授けん」と言って当地に鎮まったという。

以前は、境内の細長い草の葉を結び合わせて縁結びを願っていたが、現在は植物保護のため本宮で授与される「結び文」に願文を書いて、指定場所に結ぶことになっている。境内には「磐長姫命の御料船」として平成8年に奉納された船形の自然石「天の磐船」が置かれている。また、後述の和泉式部の歌碑がある。
 
末社
貴船神社内には、多くの末社がある。

文芸
当社は古くから文芸にも多く登場している。

和泉式部
和泉式部が貴船神社に参詣した時の歌が、後拾遺和歌集に収録されている。

「男(夫の藤原保昌)に忘れられている頃、貴船神社に参拝し、御手洗川に蛍が飛んでいるのを見て詠んだ歌」として

「物おもへば沢の蛍も我が身より あくがれいづる魂(たま)かとぞみる」(恋しさに悩んでいたら、沢に飛ぶ蛍も私の体から抜け出した魂ではないかと見える)

という歌である。それに対して貴船明神が返したと伝えられる歌

「奥山にたぎりておつる滝つ瀬の たまちる許(ばかり)物な思ひそ」(奥山にたぎり落ちる滝の水玉が飛び散るように、(魂が飛び散ってしまうほど)思い悩んではいけない)

も後拾遺和歌集に収録されている。

後の時代に書かれた『沙石集』には、この時の参詣の様子が詳しく書かれている。和泉式部は巫女に縁結びの祭を行わせたが、その一環として巫女は、和泉式部の着物の裾をめくって陰部を露出させる作法をすることを迫った。和泉式部はそれを拒否したが、その様子を夫の保昌が神社の陰から見ており、その態度に感じ入って、その後は夫婦円満になったという。

鉄輪
室町時代の謡曲の題名。あらすじは後妻を娶った男を先妻が恨み、貴船神社に詣でたところ「赤い布を裁ち切り身にまとい、顔には朱を塗り、頭には鉄輪を乗せ、ろうそくを灯せば鬼となる」とお告げを受ける。男は悪夢に悩み、安倍晴明の元を訪れ鬼となった先妻と対決して鬼は消え失せる、というもの。この謡曲は京都市内にある「鉄輪の井」にまつわる伝説を元になっているという説と、『平家物語』「剣之巻」及び『太平記』内の「宇治の橋姫」の物語が元になっているという説がある。

備考
源義経や弁慶の時代を堪能できる観光スポットとして、鞍馬寺とあわせて周遊するコースも人気が高い。鞍馬寺西門(貴船口)は貴船川に面しているが、 鞍馬寺の主要な諸堂までの参道は山道となっており、ハイキングの用意が必要である。この場合、鞍馬駅から鞍馬寺経由で貴船に向かうコースの方が主流である。


日本各地の貴船神社
当社から勧請を受けた貴船神社(貴舟神社、貴布禰神社、貴布祢神社、木船神社、木舟神社…など)が日本各地に約450社ある。また、祭神の「おかみ」を社名とする神社(龗神社、高龗神社、闇龗神社、意賀美神社…など)は2000社を超える。

 由岐神社(ゆきじんじゃ)は、京都市左京区鞍馬本町にある神社である。鞍馬寺の鎮守社である。通称靫明神(ゆきみょうじん)。


大己貴命と少彦名命を主祭神として「由岐大明神」と総称し、八所大明神を相殿に祀る。祭神は元は宮中に祀られていたが、都で大地震・天慶の乱が起き、当時の天皇である朱雀天皇の勅により、天慶3年(940年)、鞍馬の地に遷宮をし、北方鎮護を仰せつかった。例祭の鞍馬の火祭は、そのときに里人がかがり火を持って神霊を迎えたことによるものである。

「靫明神」という社名は、天皇の病や国難時に神前に靫(ゆき)を献じて平穏を祈ったことによる。洛中の五条天神社は、国難時にその責任を取って「流罪に処す」として、国の役人が神社の扉に靫を架けて閉じるということが行われていたが、『徒然草』によれば由岐神社でも同様のことが行われていたという。由岐神社と五条天神社は、祭神が同じである。
出典 Wikipedia

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