《華やかな演奏効果に溢れた作品だけに、数あるヴェルディオペラの中で最もポピュラーな作品だと言えます。それ故に、これを持ってヴェルディの傑作と評する人もいる中で、逆につまらぬ演奏効果だけに彩られたヴェルディ最大の愚作、と切って捨てる人も多い作品です。
確かに、このオペラを「スペクタクルオペラ」として捉え、派手派手しい演出にのみ工夫を凝らしている舞台も少なくありません。そういう舞台では、花火は上がる、象さんは出てくる、耳も裂けよとばかりにアイーダトランペットは叫びまくるで、これはホントに「ヴェルディ一世一代の恥さらし作品」だなと思ってしまいます。そんなアホウな演出は論外として、じっくりと音楽にのみ耳を傾けてみると、このオペラはその様な単純な「スペクタクルオペラ」の範疇だけで理解できるような代物ではないことに気づかされます。
このオペラの底流を流れているのは、社会を成り立たせているあれこれの約束事の世界、言葉をかえれば「~であらねばならない」という価値観と、個人を貫いている本音の世界、言葉をかえれば「~でありたい」という価値観の葛藤です。
この前者を代表するのが司祭長のラムフィスと、アイーダの父であるエジプト王のアモナズロです。逆に後者の立場を代表するのが、アイーダとラダメスです。このオペラの中で、この両者の立場は最後まで揺らぐことはありません。
複雑な立場にあるのが、エジプト王女であるアムネリスです。アムネリスのラダメスに寄せる愛は、真実のものです。しかし、その愛はラダメスからの愛という形ではなくて、凱旋将軍であるラダメスに対する「褒賞」という国家の「約束事」として成就されようとします。
つまり「~でありたい」という願いが「~であらねばならない」という約束事の世界で成就してしまうのです。しかしながら、アムネリスのラダメスへの愛は真実であるが故に、その様な約束事の世界として成就されることに、彼女は我慢できません。かといって権力者であるアムネリスは、本音の世界においてラダメスの愛を得ようなどとはしません。彼女は己が持つ権力にすがり、アイーダとラダメスの仲を裂こうとあれこれ画策してしまう女性なのです。
彼女は己の画策の末、愛するラダメスが祖国への裏切り者として死罪が下されようとする時も、アイーダと別れてくれれば命だけは助ける、と懇願してしまう女性です。つまり彼女だけは、二つの価値観の中で身を引き裂かれているのです。おそらく、このオペラのクライマックスはラストシーンです(決して凱旋のシーンではありません)
「~でありたい」という価値観は「~であらねばならない」という価値観の前に敗れ去ります。エジプトという国家を体現するラムフィスの前に、アイーダとラダメスは生きながらに埋められるという死罪を科されて敗れ去るのです。しかし、その死は同時にエジプト王女アムネリスを通して「~であらねばならない」という価値観は、決して個人の心の世界を屈服させることができないことをも浮き彫りにします。
ヴェルディ自身が考案したというラストの地下と地上の二重構造の舞台は、その事を鮮やかに視覚化してくれます》
《アムネリスは、この後どの様にして生きていくのだろうかと思いを巡らせてしまいます。彼女が、ラムフィスのように約束事の世界で毅然と立っていれば、この悲劇は起こらなかったはずです。
ラダメスを「愛する人」としてではなく「凱旋将軍」として夫に迎えていれば、この悲劇は起こらなかったはずなのです。しかし、彼女はラダメスの「心」を求めました。すべての悲劇は、この一点から始まります。そして、その悲劇的結末は、いかなる権力を持ってしても「心の真実」を屈服させることができないことを彼女に教えました。
死を前にして「おまえはあまりに美しい」と語りかけ、重い石の扉を死にものぐるいで押し上げてアイーダだけは助けようとするラダメスの姿を、アムネリスはどの様な思いで地上から眺めたのでしょうか。
結局、彼女はエジプトの王女として、約束事の世界で生きていくしか術はありません。しかし、彼女はその世界の空しさを嫌と言うほど知ったのですから、その後の生の何という空しさでしょう》
《繰り返しますが、このオペラは決して外面的効果だけを狙った「スペクタクルオペラ」ではありません。疑いもなく、ヴェルディの全ての作品に共通する深い人間のドラマです。その様な人間ドラマとして演出すれば、イタリアペラの総決算とも言うべき優れた内容を持った作品として、私たちの前に姿を表してくれます。しかし外面的な効果ばかりに目を奪われ、その追求にのみ興味が集中すれば、いとも容易くこの作品は「世紀の愚作」になってしまう危険性を内包している、と言うことも留意しておかなければなりません。
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