2004/07/29

穴太積み (2002花見)おまけ

 出典 Wikipediaほか

穴太衆(あのうしゅう)は、織豊時代(安土桃山時代)に活躍した、主に寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団。石工衆、石垣職人とも。「穴太」の歴史的仮名遣での読み仮名は「あなふ」である。

 

概要

近江の比叡山山麓にある穴太の里出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。江戸時代初頭にかけて多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られ、彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったというが、不明な部分も多い。

 

現在でも、坂本の町に多数立ち並ぶ里坊とよばれる延暦寺の末端の寺院群は、彼らの組んだ石垣で囲まれ町並みに特徴を与えている。

 

穴太積み

穴太積みとは、野面積みを示す昭和初期に言われるようになった俗称であり、穴太衆が積んだ野面積みの石垣のこと。野面積みのことを穴太石垣と誤解されることもある。穴太衆は石垣職人であるので、実際は玉石積や切石積も行えた。

 

穴太(あのう)積みというのは、滋賀県の大津市坂本近くにある穴太の石工集団が積んだ石垣のことを云いますが、基本的には自然石を積み上げる野面積みです。坂本へ行くと滋賀院門跡等、あちこちで穴太積みといわれる石垣を見ることが出来ます。歴史的には、穴太でこうした石垣を積む技術をもった集団のことを「穴太衆」と称しています。

 

 この穴太衆を一躍有名にしたのが、織田信長が築いた安土城を穴太衆が積んだと云われたことに始まります。しかし近年では、安土城の石垣を積んだのが穴太衆であるという考え方は否定されています。

 

 にも関わらず、依然として「安土城の石垣は穴太積みである」とか「どこそこの城を調査した結果、穴太積みの石垣が出てきた」等と報道されることがありますし、城址の案内板などにも「穴太積みの石垣」と書かれていることもあります。

 

ここでは、穴太積みの石垣について、私見を交えて考えてみたいと思います。

 

石工集団と石積み技術

 織田信長が築いた安土城や豊臣秀吉の大阪城、豊臣秀次の近江八幡山城、あるいは秀吉の家臣であった加藤清正や福島正則等の築いた今治城、熊本城へ行くと必ず石垣があり、西日本ではお城=石垣といったイメージが定着しています。

 

 勿論、近世城郭だけでなく、中世に築かれたお城にも石垣や石積みはあります。近江でいえば、佐生城(能登川町)や壺笠山城(大津市)等があげられますし、お城でもない畑の中にも石積みはアチコチで見られます。畑地を開墾して出てきた石を23段程度積み上げるのは、誰にでも出来ることですから、当然のことではあります。

 

 しかし、ただ単に石を積み上げた石積みは石垣とは云いません。現在では、石垣の定義は「石積みの裏にこぶし大の裏込め石(栗石)等を入れることで、排水対策を施したもの」とされ、定義上石垣と石積みは明確に区別されています。

 

 ならば、排水対策をして石を積むことで、一応は私でも石垣を積むことは可能で、こうした石垣を12m程度ならば積むことは出来ますが、高さを3m、あるいは5mと背丈よりも高く積み上げるとなると簡単にはできません。まして当時の石垣は、大きな石を人力だけで積み上げています。まして、高く積めば積むほど崩れ易くなり、ここに石積み技術が必要となり、石垣造りを専門とする集団が生まれてくることになります。

 

近江における石積み集団

 近江の城の特徴として、石垣を積んだ城が多いことがあげられます。前述した安土城をはじめ、中世城郭では小谷城、佐和山城、観音寺城、坂本城等々、近世城郭では長浜城や彦根城、水口城、および膳所城等々で、石垣造りの城の多さでは全国でも群を抜いています。

 

これは近江における1,300余りという城の数の多さと共に、寺院の数とも関係しています。元々、石積み技術は宝篋印塔や五輪塔、石仏を造っていた石工集団が、寺院などの石垣を積むことから技術を高めていったわけで、寺院の多い近江にはそうした石工集団が多くいたことが想像されます。具体的には、穴太や馬淵(近江八幡市)、岩倉(近江八幡市)、敏満寺(犬上郡多賀町)近くの金屋です。

 

 余談になりますが、近江における石仏の数は郷土史を研修されている瀬川欣一氏によると数十万体(数字をはっきりと覚えていないのですが)あるとされており、上述した地域以外にも多くの石工集団がいたと考えられます。戦国大名たちは、これら石工集団を使って城の石垣を積むことになりますが、中世における石工集団は寺院勢力が支配していたとされ、六角氏が観音寺城の石垣を積むのに、永源寺に石工集団の派遣を要請した文書も残されています。

 

 こうした中世の寺院が支配する「座」を解放したのが織田信長で、信長は中世の宗教勢力と戦い、石積み技術と共に寺院勢力の特権とされていた瓦を焼く技術も取り入れ、安土城を築いたわけです。

 

安土城と穴太積み

 さて、信長が築いた安土城の石垣は、従来穴太衆が積んだとされていましたが、現在では多くの人達が否定しています。その理由のひとつが、信長の家臣であった太田牛一が書いた軍記である「信長公記」などにも穴太衆という記述はなく、穴太衆という名前が出てくるのが江戸期からであるためです。

 

 また、安土城の石垣は非常に多様な積み方がなされ、どう考えても、ある特定の石工集団だけで積んだものとは考えられませんし、信長が穴太衆だけを使って安土城のすべての石垣を積ませたと考えるのは、極めて不合理です。信長は築城期間を短くするために近在の馬淵衆や岩倉衆、あるいは他国からも石工集団を呼び寄せて積ませたことは明らかです。

 

 こうして考えると安土城の石垣は穴太衆が積んでのではなく、穴太衆も関わって積まれたというのが妥当です。その後、豊臣秀吉子飼いの武将達が大名となり、信長の築いた安土城や秀吉の大阪城を手本にして、各地で城を築く際には穴太衆を連れて行き、穴太衆の指揮の下に各地で石垣造りの城が築かれたと云うことではないでしょうか。

 

安土城二の丸の石垣

では、穴太積みは実際にあるのでしょうか。現在も坂本で穴太積みを伝えている方がおられる方がおられますから、実在するのは間違いありません。ちなみに、穴太積みの極意は「石の声を聞く」のだそうです。つまり「石の一つひとつが、収まるべき所に収まる」ということで、石の一つひとつの形状を考慮しながら積んでいくのが穴太積みだと聞きます。これは坂本へ行って、お寺などの石垣を観ていると、よく理解出来ます。

 

 安土城の築城以後、石垣造りの城は西日本を中心として各地に築城され、城の築城数の増加に伴い石積みの技術は、自由奔放に積まれていた石垣は、より精巧な野面積みから打ち込みはぎへと、更には切り込みはぎへと発展し、こうした加工するのに適した石材が入手できない地域では、牛蒡積みといったより堅固な積み方へと発展していきます。

 

 しかし、今まで日本各地にある城の石垣で、穴太衆が積んだものだとはっきりしている石垣があるとは聞いたことはありません。しかし、坂本には穴太積みが実在しています。

 

 こんなことを考えると、穴太積みは広い意味では野面積みですが、穴太積みは野面積みにあって、野面積みにあらず。穴太積みと野面積みの違いをはっきりさせるのは、100年後、200年後に現代に積まれた穴太積みが野面積みとの違いを示す時かも知れません。穴太積みは、まさに秘伝と云えるのではないでしょうか。

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