2004/07/08

比叡山(2001洛北の秋part8)

 大乗戒壇の設立

延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。

 

最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏(悟りを開く)することができるというもので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。

 

最澄は、自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。

 

大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく許可された。

 

 

名僧の輩出

大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。円仁(慈覚大師、794 - 864)と円珍(智証大師、814 - 891)は、どちらも唐に留学して多くの仏典を持ち帰り、比叡山の密教の発展に尽くした。

 

なお比叡山の僧は、のちに円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになった。正暦4年(993年)、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもった。以後、「山門」(円仁派、延暦寺)「寺門」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返し、こうした抗争に参加し武装化した法師の中から、自然と僧兵が現われてきた。

 

平安から鎌倉時代にかけて、延暦寺からは名僧を輩出した。円仁・円珍の後には「元三大師」の別名で知られる良源(慈恵大師)は延暦寺中興の祖として知られ、火災で焼失した堂塔伽藍の再建・寺内の規律維持・学業の発展に尽くした。

 

また、『往生要集』を著し、浄土教の基礎を築いた恵心僧都源信融通念仏宗の開祖・良忍も現れた。平安末期から鎌倉時代にかけては、いわゆる鎌倉新仏教の祖師たちが比叡山を母体として、独自の教えを開いていった。

 

比叡山で修行した著名な僧としては、以下の人物が挙げられる。

 

良源(慈恵大師、元三大師 912 - 985年)比叡山中興の祖。

源信(恵心僧都、942 - 1016年)『往生要集』の著者

良忍(聖応大師、1072 - 1132年)融通念仏の唱導者

法然(1133 - 1212年)日本の浄土宗の開祖

栄西(1141 - 1215年)日本の臨済宗の開祖

慈円(1155 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。

道元(1200 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖

親鸞(1173 - 1262年)浄土真宗の開祖

日蓮(1222 - 1282年)日蓮宗の開祖

 

武装化

延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないもの、と例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)をかついで強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの言い分を通していた。

 

また、祇園社(現在の八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の戦争により延暦寺がその末寺とした。同時期、北野社も延暦寺の配下に入っていた。1070年には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認された。

 

このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力をも持っており、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態(近年は、その状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であった。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺のそれと並び称せられ、南都北嶺と恐れられた。

 

延暦寺の勢力は、貴族に取って代わる力をつけた武家政権をも脅かした。従来、後白河法皇による平氏政権打倒の企てと考えられていた鹿ケ谷の陰謀の一因として、後白河法皇が仏罰を危惧して渋る平清盛に延暦寺攻撃を命じたために、清盛がこれを回避するために命令に加担した院近臣を捕らえたとする説(下向井龍彦・河内祥輔説)が唱えられ、建久2年(1191年)には、延暦寺の大衆が延暦寺と対立した鎌倉幕府創設の功臣佐々木定綱の処罰を朝廷及び源頼朝に要求し、最終的に頼朝がこれに屈服して定綱が配流されるという事件が起きている(『吾妻鏡』ほか)。

 

武家との確執

初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長であったが還俗、将軍就任後は比叡山と対立した。

 

永享7年(1435年)、度重なる叡山制圧の機会に悉く和議を(諸大名から)薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首した。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難した。しかし義教の姿勢は変わらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺した。

 

当時の有力者の日記には「山門惣持院炎上」(満済准后日記)などと記載されており、根本中堂の他にも幾つかの寺院が全焼、あるいは半焼したと思われる。また、「本尊薬師三体焼了」(大乗院日記目録)の記述の通り、この時に円珍以来の本尊も、ほぼ全てが焼失している。同年8月、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工した。また、宝徳2年(1450年)516日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置している。

 

なお、義教は延暦寺の制圧に成功したが、義教が後に殺されると延暦寺は再び武装し、僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化させ独立国状態に戻った。

 

戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰した。また戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、将軍足利義昭との政治的対立を起こすと、延暦寺は義昭側について浅井・朝倉連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こした。

 

元亀2年(1571年)、延暦寺の僧兵四千人が強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて912日、延暦寺を取り囲み焼き討ちした。これにより延暦寺の堂塔は悉く炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。

 

この事件については、京から比叡山の炎上の光景がよく見えたこともあり、山科言継など公家や商人の日記や、イエズス会の報告などにはっきりと記されている(ただし、山科言継の日記によれば、この前年の1015日に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとあり、延暦寺は織田・浅井双方の圧迫を受けて進退窮まっていたとも言われている)。

 

信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって、各僧坊は再建された。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建している。家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、天台宗の宗務の実権は江戸に移った。

出典 Wikipedia

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