2004/07/01

鞍馬(2001洛北の秋part1)


鞍馬線は、京都府京都市左京区の宝ヶ池駅から鞍馬駅までを結ぶ、叡山電鉄の鉄道路線。京都市中心部から市原駅付近までの生活路線および、鞍馬寺や貴船神社への参詣・行楽路線である。

二軒茶屋駅付近までは山裾を走るものの、沿線に住宅地が広がり都市近郊路線の趣きがあるが、同駅以北は50‰の勾配がある山岳路線となる。ただし、市原駅付近までは沿線の住宅地開発が進んでおり、山深さはない。秋の紅葉の時期に市原駅 - 二ノ瀬駅間で見ることができる『もみじのトンネル』は鉄道ファンのみならずとも有名で、貴船もみじ灯篭が行われる期間中はライトアップも行われる。

この期間中、夜間(17時から21時頃)にこの区間を走行する際には、車内灯が消され徐行し車窓を楽しむことができる。

周辺道路が非常に狭く、秋の観光シーズンには並行して走る道路が大渋滞となるため、車内は大都市圏の通勤ラッシュ並みの混雑となる。また、鞍馬の火祭開催時は鞍馬周辺の道路が通行止めとなるため、事実上唯一の交通手段となる。

しかし現在、京都市建設局により、並行して走る鞍馬街道(京都府道38号京都広河原美山線)のバイパス建設や拡幅整備が計画されており、完成すると鞍馬方面への大型観光バス等の通行が容易となることから、その将来は必ずしも安泰ではない。

運行形態
平日ダイヤと、土休日ダイヤの2つを基本としている。

全ての列車が叡山本線から直通する。おおむね、平日昼間時間帯は出町柳 - 鞍馬間、出町柳 - 二軒茶屋間の列車が各々20分間隔、土休日昼間時間帯は、全列車が出町柳 - 鞍馬間で15分間隔である。朝と夕方以降には市原駅で折り返す列車があるほか、車庫のある修学院駅発着となる列車もある。

お盆や年末等は平日でも土休日ダイヤで運行されることがあるほか、観光シーズンには特別ダイヤが組まれることがあり、平日は出町柳 - 鞍馬間の列車が15分間隔と下校時に合わせた出町柳 - 二軒茶屋間の折り返し列車が、休日は最大で出町柳 - 鞍馬間の列車が12分間隔で運転される。

2004年からは、原則として全ての列車がワンマン運転を行っているが、多客時は茶山駅から市原駅(二ノ瀬駅まで乗務する車掌もいる)までの区間で車掌が乗務することがある。

平日昼間の出町柳発は、鞍馬線鞍馬行および二軒茶屋行が毎時各3本運転に対し、叡山本線八瀬比叡山口行は毎時3本で、同社本来の本線である八瀬比叡山口までよりも、二軒茶屋までの本数のほうが多くなっている。

鞍馬山は、京都府京都市左京区にある山。標高584m。東を鞍馬川、西を貴船川に挟まれた尾根が南北に連なる。霊山として知られ、密教による山岳修験の場として栄えた

延暦15年(796年)、あるいは宝亀元年(770年)には、鞍馬山の南中腹に毘沙門天を本尊とした鞍馬寺が創建された。また、牛若丸(後の源義経)の修行の地であり、「鞍馬天狗」で知られている。古くより、春は桜、秋は紅葉の名所としても知られた。「更級日記」にも、鞍馬山の春秋の姿が描写されている。

鞍馬山の古名を暗部山とする説がある。暗い場所を意味する「暗部(闇部)(読み、くらぶ)」の読みが「鞍馬」に転じたとする説である。

「くらぶ山」、「くらま山」は歌枕でもある。「和歌初学抄」、「五代集歌枕」など多くの歌学書では「くらぶ山」は山城国の山であるとはしているものの、その具体的な場所を特定していない。これらの歌学書では「くらぶ山」と「くらま山」を、それぞれ別の歌枕として扱っている。在原元方、紀貫之らの歌人が「くらぶ山」を歌枕として詠み、それらは「古今和歌集」に収められている。同様に、安法法師らの歌人が「くらま山」を歌枕として詠み、これは「拾遺和歌集」に収められている。このように、和歌においては暗部山と鞍馬山は異なる山とされる

近世における地名としての暗部山に目を向けると「都花月名所」では暗部山は鞍馬山のことであるとしているが「都名所圖會」、「山城名勝志」などでは、鞍馬山の西に位置する貴船山が暗部山のことであるとしている。「雍州府志」では、暗部山は貴船山のことであるという説を先に挙げながらも、鞍馬山を暗部山とする説もあるとしている。このような混同が見られ、地名としての暗部山も鞍馬山のことを指しているとは断定できない。

鞍馬寺との関わり
鞍馬寺の現在の本尊である魔王尊、または、サナート・クマラが降り立った地であると言い伝えられている。鞍馬寺と鞍馬山は密接な関係にあり「鞍馬山」と言った場合、鞍馬寺を指していることも多い

鞍馬寺は、京都府京都市左京区鞍馬本町にある仏教寺院。宗派は、もと天台宗に属したが、1949年以降独立して鞍馬弘教総本山となっている。山号は鞍馬山。開基(創立者)は、鑑真の高弟鑑禎(がんてい)とされている。本尊は寺では「尊天」と称している。「尊天」とは、毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊であるという。

京都盆地の北に位置し、豊かな自然環境を残す鞍馬山の南斜面に位置する。鞍馬は牛若丸(源義経)が修行をした地として著名であり、大佛次郎の『鞍馬天狗』でも知られる。新西国十九番札所である。

なお、鞍馬寺への輸送機関としてケーブルカー(鞍馬山鋼索鉄道)を運営しており、宗教法人としては唯一の鉄道事業者ともなっている。

鞍馬寺の草創については『今昔物語集』、『扶桑略記』など諸書に見られ、延暦15年(796年)、藤原南家の出身で造東寺長官を務めた藤原伊勢人という人物が、毘沙門天と千手観音を安置して創建したとされている。しかし、寺に伝わる『鞍馬蓋寺縁起』(あんばがいじえんぎ)には別の草創縁起を伝えており、鑑真の高弟鑑禎(がんてい)が宝亀元年(770年)に草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりという。

鑑禎は、鑑真が唐から伴ってきた高弟8名のうちの最年少であった。宝亀3年(772年)のある夜、鑑禎は霊夢を見、山城国の北方に霊山があると告げられる。霊山を尋ねて出かけた鑑禎は、ある山の上方に宝の鞍を乗せた白馬の姿を見る。その山が鞍馬山であった。

山に入った鑑禎は女形の鬼に襲われ殺されそうになるが、あわやという時、枯れ木が倒れてきて鬼は潰されてしまった。翌朝になると、そこには毘沙門天の像があったので、鑑禎はこれを祀る一寺を建立したという。この鑑禎の話は『鞍馬蓋寺縁起』以外の書物には見えず、どこまで史実を伝えるものかわからない。ただし、清水寺の草創縁起と同様、南都(奈良)の僧が創建にかかわったとしている点は注目される。

その後、延暦15年(796年)、官寺である東寺の建設主任であった藤原伊勢人は、自分の個人的に信仰する観音を祀る寺を建てたいと考えていた。伊勢人は、ある夜見た霊夢のお告げにしたがい、白馬の後を追って鞍馬山に着くと、そこには毘沙門天を祀る小堂があった。

「自分は観音を信仰しているのに、ここに祀られているのは毘沙門天ではないか」

と伊勢人は訝しがった。ところが、その晩の夢に1人の童子が現われ「観音も毘沙門天も名前が違うだけで、実はもともと1つのものなのだ」と告げた。こうして伊勢人は千手観音の像をつくって、毘沙門天とともに安置したという。
出典 Wikipedia

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