2004/07/24

建仁寺(2002東山の花見)part2

 建仁寺は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。

 

京都五山の第3位に列せられている。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松(かいほうゆうしょう)の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などが見られる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や「八坂の塔」のある法観寺は、建仁寺の末寺である。

 

寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、よく日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。

日本に臨済宗を正式に伝えたのは栄西(ようさい、えいさい)が初めとされている。栄西は永治元年(1141年)、備中国(岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り翌年得度(出家)。仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2回、南宋に渡航した。

 

1度目の渡宋はわずか半年であったが、2度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅した。建久2年(1191年)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て、帰国する。

 

当時、京都では比叡山(延暦寺)の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であった。栄西は初め九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で正治2年(1200年)に建立された寿福寺の開山となる。その2年後の建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺である。伽藍は宋の百丈山に擬して造営された。

 

創建当時の建仁寺は天台、真言、禅の3宗並立であった。これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。創建から半世紀以上経た正元元年(1259年)には、宋僧の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう、鎌倉建長寺の開山)が11世住職として入寺し、この頃から純粋禅の寺院となる。

 

建仁寺は、応仁の乱による焼失のほか、応永4年(1397年)、文明13年(1481年)など度々火災にあっており、創建当時の建物は残っていない。

 

伽藍

勅使門

重要文化財。寺の南側正面、八坂通りに面した四脚門。

平教盛の館門(平重盛の館門とも)を応仁の乱後に移築したものと伝えるが定かでない。様式的には、鎌倉時代末頃の建築である。

 

三門(望闕楼)

静岡県浜松市(旧浜名郡雄踏町)の安寧寺から1923年に移築したもので、江戸時代末期の建築である。

 

法堂(はっとう)

仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(講堂にあたる)を兼ねている。

明和2年(1765年)の建立。また、平成14(2002)創建800年を記念して、天井に小泉淳作により双龍の絵が描かれた。


 

方丈

重要文化財。室町時代の建物で、もと広島の安国寺にあり、安国寺恵瓊が慶長4年(1599年)に建仁寺に移築したもの。建物の外周すべて建具が入り、壁が少ない構造のためか、1934年の室戸台風で倒壊し、1940年に復旧された。

 

各室には、桃山時代の画壇と代表する画家の1人である海北友松(かいほうゆうしょう)の水墨障壁画があったが、現在は襖から掛軸に改装され、京都国立博物館に寄託されている。台風被害の復旧後は、日本画家橋本関雪による「生生流転」(しょうじょうるてん)の障壁画が設置されている。

 

東陽坊

北野大茶会の際に、千利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が好んだと伝えられる茶室。二畳台目下座床の席。構成・意匠ともに、薮内家の燕庵に共通する点が多く見られる。大正年間に現在地に移築された。

 出典 Wikipedia

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