2004/07/28

最高峰の壁(高校受験シリーズpart8)

 当時の制度では、名古屋に30校ほどあった公立の学校群対象校の受験資格は、名古屋市内と一部の周辺地域在住者に限定されていた。そのため名古屋市外在住者は、いかに成績優秀であっても『旭丘』や『明和』、『菊里』といった、名古屋を代表する名門には入りたくても受験する資格がなく、地区内の学校で満足できない場合は『東海』、『南山』(ともに名古屋市)、或いは『』(江南市)といった私立校に進むしか方法がなかった。

ただし上記3校に関しては、いずれも名古屋学校群にキラ星の如く犇く、各学校にもヒケを取らないレベルの高さでは知られていたが、同時に毎月の月謝の高いことでも知られており、優秀な成績は勿論だが、それに加え経済的に余裕のある環境にも恵まれていなければならない。加えて、いずれもが中高一貫校として、自校中学からの推薦組が中心勢力として君臨していただけに、現実に外部中学から受ける学生といえば他の私立中学出身者か、公立中ならば余程ズバ抜けた成績を持つような学生だけに限定されていたのが実情だった。

そんな中でも殊に『東海』に関しては、特にひと際抜きん出た存在として広く認知されていた。

2年前に『B中』を卒業したミーちゃんも

「私の年で『東海』へ行ったヤツだと?
そんな洒落たのは、訊いた事もねーな。『東海』の「と」の字も訊いた記憶がねーぞ。多分、受けたヤツすらおらんかったんじゃないかな」

と、A市では

(『東海』なんて、どこの世界の話か?)

といった反応が一般的なものであった(もっとも名古屋・白壁の社長御曹司だったにゃべ母の弟は、当然の如くに中学から東海だったらしいが・・・)

この証言にある通り、ここ23年間は、『B中』からの『東海』受験者はゼロだったらしい。実際、身近でA市の『東海』OBといえば、にゃべ家かかりつけの内科医師(もう50代くらいだから、30年以上も昔の話だが)くらいしか訊いたことがなかった。

余談ながら母の行きつけの美容院の女性オーナーが、この医師と中学で同級生だったらしく

『向こうは学年トップで東海だし、こっちは逆のトップで中卒だったからねー・・・あの病院だけは、絶対に足が向かないわよ・・・』

とか言っていたらしいが。

 『B中』が『A高』受験者の滑り止めに指定していたのは『愛知高校』だったが『A高』への推薦入学が決定した事で

「こーなりゃ、天下の『東海』に挑戦してみようじゃねーか!」

と急遽、当初予定していた『愛知』から『東海』に鞍替えした経緯があった(ヒムロの志望校は、最後までわからなかったが)

一緒に受けるものと勝手に決めていたムラカミは、当初から『東海』受験の意思はなく、結局『東海』受験者は自分だけとなったが、それでも

「『B中』から『東海』受験者なんて、ここ23年は記憶にないのに・・・さすがは腐っても(?)神童上がりのにゃべだな」

と、学年主任の教師も変な感心をしていた。

一般に、公立校の滑り止めの性格が強い私立の場合は、最初からソデにされる分を見込んで定員より遥かに多めの合格者を確保しているものだ。ところが『東海』の場合は、志願者の中での入学希望者の割り合いが多いだけに、水増し合格はそれほど多くはない(精々2倍程度)

しかも、定員50人のところに競争率7倍の志願者が350人であり、恐らくは各地を代表するような優等生ばかりが揃っているだろう事からも『A高』推薦といえど、必ずしも合格の保証はなかったのである。

その『東海』受験を決めて、まだ間もないころのこと。

「オマエは『東海』合格確率は、どのくらいあると考えてるか?」

と、ムラカミから問われた。

「そうだなぁ・・・『A高』なら、限りなく100%に近いといえるだろうがな。『東海』となると、サッパリレベルの見当がつかん。まあ80%くらいってとこかな?」

「そんなにあるかいな・・・オレは、精々70%、ひょっとすると60%も怪しいんじゃねーかと、思ってるんだがな・・・」

「そこまでは、ねーだろーが。ところでヒムロのヤローは、やっぱ『東海』といえど落ちるのは考えにくいよな?」

「もしも、ヒムロだけが合格したら・・・いい笑いもんだよな」

「う~む・・・」

「まあ、オマエのことだから大丈夫だろうが・・・」

そんなころ、家には久しぶりにマッハから電話があった。早速、ミーちゃんが

「ねえねえ!
にゃべが『東海』を受けるんだとよ」

と伝えると

『嘘~っ?
アイツは、そんなに賢かったんかー?
そりゃ、すげー』

って、さすがのアイツも珍しくビックリしとったわ」

とか。あの滅多な事では動じない唐変木のマッハさえも思わず絶句する、それほどに当時の『東海』の威光は絶大なものがあった。

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